かつての実践を思い出した
新幹線に乗りいつものように「トランヴェール」(JR東日本の情報誌)を読む。
3月号は「近代化日本シルク紀行」という特集である。富岡製糸場や信州の岡谷が紹介されていた。
中でも「片倉館」については初めて知った。製糸工場で働いている女工や地域の人のための保養施設として80年以上も前に建築されたものである。
そこはまさに「女工哀史」で描かれている世界とは違うものであった。
読みながら自分のかつての実践を思い出していた。
教師になって10年目の研究授業だった。6年社会で、この女工哀史の部分を扱った。
一般的に「悲惨な女工生活」として扱われる(教科書にそういう記述もあった)ところである。自分もかつて見た映画「ああ野麦峠」の印象が強く残っている。
しかし、教材研究していくうちに、「今の時代と比べると」確かにきつい労働だったが、当時の女工のアンケートを見ると「田舎でかせぐよりもよい」「ご飯を食べられるから幸せ」という声もあり、決して「全て悲惨なくらし」というわけでもなさそうだということがわかった。
そこで授業の時に最初は悲惨なくらしと思っていた当時の女工の仕事や生活ぶりが、当時の基準で考えるとそういうわけでもないという見方に変えることをねらいとした授業だった。
しかし、この授業はうまくいかなかった。詳細は覚えていないものの、「失敗したなあ・・・」ということは覚えている。
一番は当時の女工のくらしぶりが「大変だ」と子どもたちが実感しなかったことにある。きっと資料提示の仕方や発問が甘かったのだろう。
だから、肝心の中心資料を見せた時には何も考えの転換が起こらなかった。いわば平板な授業になってしまった・・・という記憶である。
教師が教材研究をして、「これ」という資料を見つけても、子どもたちの実態に合わなかったり、資料提示や発問が甘ければ決していい授業にはならない・・・そういうことを実感した研究授業だった。
思い出してみれば、研究授業は120回ぐらいしているが、うまくいったものよりもこのように失敗したことの方が印象に残っている。そして、次への学びも大きい。その点で、失敗は宝物である。
The comments to this entry are closed.
Comments
hakusukeさん、コメントありがとうございました。
私と同じところにピンと来ていますね。身分の高いところの娘さんたちも数多く立候補し、女工になったと書かれていましたね。これは確かに意外でした。しかも「一等女工」となり、各地の指導者になっていった・・・当時の日本を支える誇りをもっていたことでしょう。
いろいろな素材から学ぶことは多いです。
Posted by: サトマサ | 2010.03.03 05:37
私も新幹線に乗った際、この女工哀史のことを読みました。このシルクの記事で気になったのは、国のためとして、高貴な身分の高い?女工も仕事をしていたということ。そして、書き込みされている通り、女工哀史が悲惨な場だけではなく、娯楽施設というか温泉だったでしょうか?製紙工場に建設して保養施設を確保した考えを示す方がいたでした。
私は社会は教えていませんが、教材はいろいろな所出見つけられるもんだと、つくづく考えさせられます。
Posted by: hakusuke | 2010.03.02 23:07