「無意識の教育 敏感に」
掲載されたコラムです。
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ここ二年間、教育を考えるうえでの自分のキーワードの一つが「ヒドゥンカリキュラム」である。あまりに耳にしない言葉だと思う。
「教師が無意識のうちに教え続けてしまっている教育内容」のことであり、「かくれたカリキュラム」とも言われる。たとえば、教室で机やいすが乱れたままの場合、「整理整頓はしなくていいんだ」と、子どもたちに無意識のうちに教えてしまっていることになる。いわばマイナスのヒドゥンカリキュラムである。
逆もある。先の例だったら、常に机やいすだけではなく、ロッカーも整理されている教室環境が日常ならば、特に教師が口にしなくても、「整理整頓をするのは当たり前」と教えていることになる。これはプラスの例である。
このエピソードをもとにして、教師の研修会で学校生活の中で似た例はないか話し合うことがある。
「教室で花瓶の花を枯れたままにしておくと、『生き物は大切にしなくてもいいんだ』と教えてしまうことになる。」「黒板の落書きをそのままにしておくと、『黒板に落書きをしていい』ということになる。」
このような例が出てくると、思わず先生方も自分の行為を振り返る。
このヒドゥンカリキュラムは実は家庭でも同様だ。先日、とある保育所で家庭教育に関わって話をした。
「玄関の靴を乱雑のままにしていたら、それは『靴はいい加減に置いていいんだ』と教えることになるのです」と写真入りで示したら、うなづいていた。さらに、家庭で「露骨に嫌な顔をしてばかりいる」「悪い点を責め続ける」とどうなるか考えたら、苦笑いをされている方もいた。
「意識しないうちに教えていること」…子どもたちに対して学校でも家庭でも敏感でありたいと思う。
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