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2016.03.11

あの日から5年…

 あの日から5年が経った。
 今思い出しても胸が締め付けられる。3月に入ってから、3・11関係の報道や特別番組も増え、なおさらそう思う。むろん忘れたり、風化させてはいけないことである。

 今日は14:46に全校で黙祷。改めて復興教育のための思いを新たにした。
 自分の中でも忘れないために、その頃に書いた日記を掲載する。

---(2011.3.11~14の仕事日記より)---


★2011年03月11日(金)  未曾有の巨大地震

 3学期も残り3日。卒業式に向けての練習、様々な事務仕事を行っていた14時46分。今まで経験したことのない地震が襲った。

 最初揺れた時には、「また地震か」と思った。一昨日に大きな地震があり、その余震と思ったのだ。緊急マイクのそばに行き、全校児童に机の下にもぐるように指示。しかし、いつものなら揺れがおさまる30秒程度が過ぎても揺れ続ける。いや、むしろ大きくなる。戸や窓ガラスも大きな音で揺れるので、あわててガスを止める。電気も切れた。外にいる子たちに「校舎に近寄らないように」と指示。その後も校舎内を周り、文集配付で廊下にいた6年生を職員室の机の下にもぐらせた。時間にして3~4分ぐらいだっただろうか。

 思わず、「無事でよかった」とホッとする。相当の地震ということで、学校として即下校とすることにした。手分けして子どもたちを送る。全員帰したのを確認してから、先生方にも帰ってもらう。まずはこれで一安心するが、我が家のことも心配だが、やはりケータイはつながらない。

 17時過ぎになっても電気はつながらない。大変な地震なので、待機しても電気がつながらないだろうということで給水ポンプの停止、水道の元栓を閉めて、電気が復旧した時点で学校に来ることにした。17:10退庁。

 そのまま水沢に向けて帰るが、当然高速は閉鎖。国道を使って帰るものの、県内全域停電。信号もついていない。晩御飯を食べたいが、店はどこも開いていない。100kmほど走ったら盛岡大学前のコンビニが営業していた。真っ暗な中、発電機でレジだけ部分照明をしていた。食料品はすでにほとんどなかったので、お菓子類と飲み物を購入して凌ぐ。

 帰る途中で聞こえてくるラジオ放送から大変な地震だったことがわかる。しかし、そこで聞いたことはあとで考えるとあくまでも序章に過ぎなかった。何度も渋滞に巻き込まれながら22:30に自宅着。長い長い5時間だった。「おかえり、意外と早かったね」という家内の言葉に少し安心した。ローソクとラジオ、反射式ストーブでの生活が始まる。

★ 2011年03月12日(土)  自分は不便なだけ

 大地震のあった日に限って寒い夜。何度も何度も震度4~5の強い余震があり、そのたびに跳び起きて外に出る。停電中の外は美しい星空。その美しい自然と全く正反対の自然の恐さ。寒さと睡眠不足で5時ごろに起きてしまう。

 まだパソコンにバッテリーがあるのでネットにつなぐ。MLの皆さんからの温かい声に励まされる。ラジオにスイッチを入れると、地元ラジオ局がずっと特別放送をしている。不眠不休でがんばるアナウンサーに励まされる思いである。

 やがて日が昇ってくる。恐怖心も少し和らぐ。家内は卒業式の日だったが、当然延期。二女も卒業式前の登校日だったが、何も連絡がなかったので一応登校時刻に一緒に中学校に行ってみる。先生方が玄関前に立って、生徒や保護者に必死に連絡をしていた。「地震があってもすべきことをしているんだ」とこれまた元気をいただく。

 自分自身も公務でいつ軽米に行くのかわからないので、できることをどんどんしていく。近くのスーパーが開くという情報がラジオから入ったので、さっそく行って並ぶ。1時間近く待って買い出し。停電の中で電卓で計算して会計。こういう時こそ開くスーパーの心意気に頭が下がった。買い物客も整然と並び、「5世帯ずつ」というルールにも従って混乱はなかった。かつて関東大震災で外国人が驚いた日本人のモラルの高さを90年近くのちの時代に今、自分が体験するとは思わなかった。

 自分が困るのがガソリンだ。勤務地まで15リットルは必要だ。これまた探したら長蛇の列があったので、ピンと来た。さっそく並んで1時間ほどで給油してもらう。疲れるだろうに手動式で一生懸命に給油してもらった。2千円分でも有難かった。この作業を何時間も続けるのだからまさに頭が下がる。

 家に戻ってからラジオで津波の惨事を聞く。停電なので、どれだけの惨事かが映像でわからない。結局、被災地が一番情報が届かない。MLやブログを読むと、とにかく「信じられない映像」のことだ。

 ラジオでは、学校情報や知人の安否を問い合わせる情報も入っていた。とにかく関係者の無事を祈るしかない。いつでも避難できる服装で横になり、目を閉じる時間が続く。ローソクの火を見ながら、体をとにかく休めていた。「自分は不便だが、それだけだからな・・・」と感じる。

 ふと思ってローソクの灯りで県内の教職員の職員録を見る。壊滅といわれている陸前高田、大槌の先生方を調べてかつての同僚や知人が多くいることを知る。一人一人の先生の笑顔を思い浮かべる。何とか生きていてほしい・・・。

★2011年03月13日(日)  「生きているだけでよかった」

 電気が通じるようになってライフラインも復旧。
 朝から一気に様々な情報が入るようになった。特に注視したのがテレビだ。きっと被災地以外の全国各地には一昨日からこのような映像が流れていたのであろう。

 宮古市を襲う津波。かつて自分が勤務したところだ。あの市役所が高いところまで水浸し。自動車がどんどん流される。高浜も似た様子だったに違いない。家内が勤務した重茂は分断されたのではないか。娘が入っていた藤原保育園は海のすぐそば。ちゃんと避難しただろうか・・・。大好きな宮古の惨状を目の当たりにしてショックを受ける。

 それだけではない。陸前高田市と大船渡市が津波に襲われる映像はもっとショックだった。まさに壊滅状態。今後どれだけの犠牲者が出てくるのか・・・。昨日に続き、同僚だった先生方のことを思う。インタビューに答えた人が「家もすべて流されたけど、生きているだけでよかった」と涙ながらに話していた。今の時代にこの地獄絵。

 現実に戻り、校長や中学校の副校長と明日からの学校体制の連絡。軽米に向けて早々と出発。内陸自体は被災状況はたいしたことはないのだが、たまに開いているコンビニに寄ると食料品はほとんどなし。ガソリンスタンドも長蛇の列。鉄道には地震の時に止まった電車。あちこちに地震の跡は残る。

 職場に行き、明日のための準備。休校となった。諸連絡と卒業式の日の段取り。それ以降に地震の影響があるものを確認し、17時過ぎにアパートへ。軽米も今日通電して生活するのに不便はない。

 ネットでは、地震の中でもすばらしい日本というエピソードが流れている。本来であれば、自分が積極的に話したい話題だ。
 今回もご家族もあるのにお店を開いた方々、整然と並ぶお客さん、全国各地から助けに来る救援隊、眠らずに惨状を伝えるラジオ放送・・・。
 しかし、今回は自分はまだまだ語らないつもりだ。関係者の安否がまだまだはっきりしない今は、まだ大地震が終わっていない。とにかく無事を祈りたい。

★2011年03月14日(月)  やはり祈るだけしかない

 まだまだ余震は続く。昨日から単身赴任生活なので、いざという時にすぐに外に出られる用意をして眠る。昨晩は3回ほど起きた。それでもずいぶん少なくなった方だ。

 学校は臨時休業日としたものの教職員は出勤日。お互いの情報交換。明日の卒業式に向けての準備を粛々と進める。今回の地震でとある会をするか否かという話が2件。確かに悩むところであろう。外部の方から見たら、「当然中止」と思われるかもしれないが、その会の趣旨+復興に向けて決意しようというのであれば別か・・・・そんなことを思う。

 悲惨な現実は受け止めなければいけない。同時に、歩けるものは明日に向かってやはり歩いていくべきなのだ。そう言いながらも、地元の新聞紙を見ながら、まだ涙。今後もどれだけの涙を流さなければいけないのだろうか。でも、それは生きてるが故の涙なのだ。とにかく無事を祈るしかできない。

 帰り際の話題はガソリン問題。遠距離通勤の本校の先生方にとっては大きな問題だ。単身赴任の私も同様。でも、これも単に「不便」なだけ。不幸なわけではない。

 アパートに帰ってからもあれこれ考えると落ち着かない日々。心のダメージは自分が考えているよりも大きいのかもしれない。

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