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2016.09.11

【HP移行原稿】佐藤学級3年目

■3年目(昭和62年度・25歳) 江刺市立愛宕小学校5年B組

■ 希望かなってまた持ち上がり
 初任から2年連続で担任をしたのであるが、5年生に担任を希望した。他に希望者がなかったからか3年連続持ち上がり。学級替えで新たな気持ちでスタートである。「5年担任はそのまま6年担任になる」という暗黙の了解がその学校にはあったので「この子どもたちと卒業できる」という嬉しさを感じた。同時に連続からくるマンネリや気のゆるみがないようにしなければと感じた。

■ まとまった実践「岩谷堂タンス」
 前年度からレポートは少しずつ書くようになっていた。この年11月の県教研に支部代表として参加をした。社会科教育分科会である。5年「岩谷堂タンス」の実践である。偶然にも伝統工芸「岩谷堂タンス」の工場が学区にあり、それを教材化したものである。本格的な「教材開発」で、一単元の実践はこれが初めてであった。以後、教研の社会の分科会には4回支部代表として参加することになる。教材開発もここからスタートということで、この「岩谷堂タンス」は自分にとって忘れられない実践となった。

■ パリへ
 この年、新婚旅行でフランスへ。それもパリのみの滞在。パックツアーではなく、自分たちで自由に行動ができるものを選んだ。私も家内も初めての海外であった。
 パリは何もかも美しかった。ベルサイユ宮殿、ルーブル美術館、凱旋門。歴史の重みがずっしり。そして何ともすてきなアンバサダーホテル。
 私自身が楽しみにしていたのはモンマルトルの丘である。名も無き画家たちが明日のピカソを夢見て路上で描くパリの風景。その志。「教師修業」を意識していた自分を画家たちに重ねていた。
 もちろん料理も堪能。機内食はもちろん、ムーラン・ルージュ見学の前にいただいたエスカルゴとワインは最高だった。休日は市街地をブラブラ。何気なく入るお店で英語で会話をするとそれだけで国際人になった気分であった。(フランス語は全くダメなのでもっぱら英語を使ったのである。挨拶は別だけど。)

■ 同僚から学ぶ
 この年に一緒に学年を組んだのは40代のベテランの女の先生。本物の実践家であった。まず、その学級の子どもたちが変わっていった。それも温かい雰囲気の中で。もちろん子どもたちに確かな力をつける。どの教科もだ。私の苦手とする音楽がその先生は専門であった。私の音楽の指導力のなさに同情されたのか、「合同音楽をしましょう」と言ってくださった。ありがたいチャンス!合同音楽と言っても私はほとんど参観しているだけ。その先生の技を盗むのに専念できたのである。この合同音楽は次の年も続いた。実に幸せな合同音楽であった。

■ 衝撃!有田学級
 2月、念願の有田学級の参観ができることとなった。筑波大学附属小学校3年生。教室には参観者が入りきらないということで、歩いて5分ほどの全林野会館のホールを借りて行われた。少しでもいい場所で見たいということで、授業開始2時間近く前に会場に到着。それでも十数名の方がすでに待たれていた。授業開始前には、数百人
の参観者に膨れ上がっていた。
 そのような中で授業をするのだから、子どもたちも緊張するだろうと思ったが、全然お構いなし。有田先生が発問をすると、次々と子供たちの発言が続く。内容もいいが、ユーモアもたくさん。まさに「鍛えられた学級」であった。数年後、有田先生は大学教授になられたので、この時に憧れの有田学級を観ることができたのは本当に僥倖であった。その衝撃は、帰校後に10枚のレポート(しかもタイトルが「全て刺激なり」というものであった)に書いたほど(正確には書かずにはいられなかった)である。

■ 自分なりに工夫した修業
 教師生活も3年目に入り、「この仕事は自分に向いている。一生涯をかける仕事」と思うようになった。一つ一つの実践を励まされたり、目標になるような人がいたりという幸せが自分にはあった。「3年目までで教師人生は決まる」と大学時代の恩師に言われたものであったが、自分の環境もそして時代も本当に有り難かった。法則化運動が盛んになるにつれ、本を読むだけだった自分も修業しなければと感じ、学級通信に細かな授業記録を書いたり、通勤の車で自分の授業を録音したテープを聞いたりした。授業の腕を磨くためである。我流だったためなかなか上達はしなかったが、本による知識は増えていった。
 10月の研究授業。指導主事来校の国語の説明文。指導主事の先生が講評で、「6つのすばらしさ」をわざわざプリント化してご助言くださったことは、実に嬉しいことであった。これが縁かどうかは分からないが、この先生には6年後、アメリカ修業の縁をいただくことになる。

■ 子どもたちと親御さん
 子どもたちも親御さんも3年目の付き合いということで、安定した関係だったと思う。ただ、まだまだ子どもたちを見る目は今考えると若かった。いわばゆとりがなかった。それでも、本当に前向きでよい子どもたちだった。「卒業まで責任を持って受け持とう」という気持ちがより強くなった。

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