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2016.09.09

【HP移行原稿】佐藤学級2年目

■2年目(昭和61年度・24歳) 江刺市立愛宕小学校4年A組

■やる気満々のスタート
 2年目。希望通りの持ち上がり。無我夢中の1年目が終わってやる気満々であった。「頼まれた仕事は何でもするぞ」「チャンスがあったら立候補」という気持ちであった。
 さっそくミニバススポ少の事務局を担当。愛宕小のミニバスはその頃は県のトップクラスのチームであっただけに、責任の大きさを感じながらの仕事をした。前年度は男子が県2位、この年も3位になって共に東北大会まで進むことができた。民間コーチが本当に熱心に指導をしてくれた。
 本業の授業も、続々と研究授業を引き受けた。5月の校内研の図工、6月の市教研の社会、7月の教育課程レポートのための研究授業というように1学期は3ヶ月連続の研究授業であった。それを聞いた同僚の先生が「若いということは凄いわー」と言ったことを覚えている。(今の初任者はこれくらいのことをしているが、当時は珍しかった。) とにかく何でもやってやろうという気持ちであった。

■高熱の中での研究授業
 ところが1回目の研究授業のの朝、起きてみると頭が痛い。熱を測ると38度。休むことは考えられない。気力でやるしかない。どんどん熱が高くなっていき、体調が悪くなるのがわかった張り詰めた気持ちで何とか1時間の授業を終えた。その後、すぐに病院に行く。注射を打ってもらい研究会もがんばって出た。授業の出来、不出来はもう覚えていないが、健康管理の重要性を改めて感じた出来事であった。
 ところで図工の研究授業は珍しい経験であった。この年、図工の絵画領域の学校公開が行われた。子どもたちの技能も高かった。意図的な指導、前提となる基礎的な技能の重要性を学んだ。これは音楽、体育にも共通するものである。今は国語や算数の校内研究が多い。当時はこのように図工や体育、社会の研究校も珍しくなかった。いい時代であった。

■私の教師人生を決定づけた有田先生の講演
 昭和61年8月2日。県の社会科教育大会が宮古市であった。市教研の日であったが、当時から有名だった有田先生が岩手に来られるということで、大会の方に参加をすることにした。
 夏休み中であったが、子どもたちが登校して授業を公開した。午後、いよいよ有田先生のご講演が始まった。このご講演は衝撃的であった。今まで「つまらない講演・講義」に慣れてしまっていた。ところが有田先生のお話はまずおもしろい。笑い話を聞いているようである。それでいて教育実践の中身は深い。「自分も真似たい」と思うものばかりであった。一番なのは「教材開発が生き甲斐で楽しい教師人生」と言われた点である。会社から教員生活に入り、その刺激の少なさや職場(40代以上が大多数)ののんびりムードに、「教師は一生の仕事?」と疑問に思った時期もあったからであった自分。これで一気に有田先生のファンになった。次々に本を購読。実践も真似た。同時に向山洋一氏、野口芳宏氏の本もどんどん読む。雑誌も十数冊購入するようになっていた。手取りの2割は本代に費やした(それも教育書・教育雑誌)が、もったいなくなかった。

■組合でのレポート
 読むだけではなく、自分で何か発信したいと思ったのもこのころである。身近にあったのが、組合の教研であった。支部の生活指導に係活動のレポートを発表。「県教研にぜひ」と言われたがミニバスがあり断念。もっともこれは内容が優れていたからではなく、若手実践者が少なく「勉強になるから」という意味であるが。
 青年部の教研にも熱心に参加した。平和教育のレポートを作成。社会の沖縄の学習でのレポートである。県内の実践者の影響を受けて、「はだしのゲン」を教室に置いたり、朝の会で「今日のニュース」で平和教育に関わる出来事を伝えたものであった。このレポートには後日談がある。半年後の夏休み、岩手日報のコラム欄にレポートの一部が引用されていた。同僚の先生に「何か言われなかった?」と心配された。管理職によっては、「戦争」「平和」という言葉だけで、猛烈な指導を受ける場合があるというのである。むろん、そのようなことは心配無用であったが。

■学級通信と大失敗
 発信はレポートだけではない。学級通信も有田先生の講演会後の2学期から発行しはじめた。
 授業や子どもの様子はもちろん、自分の研修記、本の話等、何でも詰め込んだという形の学級通信であった。一日2枚発行したり、冬休み号(20枚ぐらい)も出したりしたので、最終的には2学期からの発行にもかかわらず178号まで出した。
 今だったら絶対出さないようなものでも平気で出していた。たとえば「頭を悩ます研究紀要」「先生が授業をしない」といったものである。親御さんはよく文句を言わなかったものだと思う。確かに毎日通信を発行する教師は当時の愛宕小ではおらず珍しかったからであろう。面談の時に励ましを頂いたこともあって、自分もやり続けることができたのだと思う。「学級通信」は自分の学級経営の武器の一つとなった。

■ あれこれ
 10月に引っ越し。分けあり引っ越しで新しい住まいは間借り。しかも玄関には大家さんの犬がいて帰るたびに吼えられていた。おかげで飲み会の帰りなどは近所に大迷惑をかけることとなった。隣にはゲートボール場があり、ゆっくり寝ていたい休日に限り「はい!2番ゲート通過!」の声で目が覚めたものであった。
 またこの年、大学時代いろいろあった両親(山梨)とも普通に行き来ができるようになった。映画を観る回数はさらに減る。秋田に帰る回数も同様。ただ、帰省した時には必ず会う親友がいた。彼の実践は大いに刺激になった。
 12月にワープロを購入。会社勤め時代にわずかであるが使っていたので、すぐに慣れた。それでも「ワープロで学級通信」というのは考えられない時代であった。書き手も読み手もである。

■2年目の学級経営
 1年目と違い、2年目は多少なりとも学級経営に自信が持てることができるようになった。子どもたちの成長に手応えがあったし、学力も1年目よりも身につけさせることができたように思えた。(これは次の年に「甘かった」ということを知る。)一年目と違い、親御さんへの対応にも少しずつ余裕が出てきた。「先生のつうしんぼ」にも取り組んでみて、好評だったことに自己満足。もっともこれらは、今考えると「まだまだ」なのであるが。当時としては精一杯であった。

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