【HP移行原稿】佐藤学級4年目
■4年目(昭和63年度・26歳) 江刺市立愛宕小学校6年B組
■ 初めて卒業生を送り出す立場に
6年生担任は小学校教師にとってやはり格別である。この年、初めて6年生を担任した。しかも今まで3年間受け持った子どもたち。「この1年間、最高の卒業生にしよう」と学級開きの日に決意したものである。同時に校内では6年生は全ての活動のリーダー。担任はその点でいろいろな指導が必要とされた。その分、「やりがいのあるポジションにさせてもらった」と自覚と自戒をしたものだった。
■ 子どもたちの活躍ぶり
子どもたちはあらゆる場面で活躍をした。運動面では、市内水泳記録会でほとんどの子が入賞。1位はとれなかったものの、人数を考えたら十分な出来であった。陸上でも高跳びの優勝をはじめ入賞続々。市内図工展では全員が入賞、そして市内音楽会にも出場(6年生が出ることは非常に珍しかった。当時の校長が「ベストの学年を出すべき」という方針で出ることとなった。)、ミニバスも奮闘というように対外的なものは満足のいくものであった。もちろん、同学年のR先生や他の同僚の先生方の指導によることが大きかったことは言うまでもない。また、児童会活動も活発であった。この年、文化的な活動として全校生活カルタ集会を行う。これは生活標語を4ツ切りのカルタにして、実際にとりあうという集会である。企画段階から子どもたちの自主性を鍛えての取り組みであった。時数減の今ではなかなかできない取り組みであった。
■ 初の雑誌依頼の原稿
この年、初めて教育雑誌から依頼原稿が来た。あゆみ出版の「子どもと教育」誌である。きっかけは読者感想カードを出したところ、返信が来て「実践をお寄せください」と書かれていたことであった。夏休みに今までのレポート、学級通信をリングファイル1冊にまとめて送ったら、依頼原稿が来たのである。サークル活動もしていない自分。しかし、雑誌に執筆をしたいという希望はあった。あこがれみたいなものである。テーマは「教師の生きがい」で2ページ。4年生の学級通信の失敗談を執筆した。昭和の終わりの暮れに掲載された雑誌が送られてきた時の喜びは格別であった。これ以降、実践を書いて明治図書の編集部や有田先生に送り、次の年からは定期的に依頼原稿が来るようになり、現在に至っている。
■ 市教研・社会の授業
この年の6月、市教研の社会科部会で研究授業。一昨年も行っているのであるが、有田先生の実践を追試したく立候補。「いざ鎌倉」の一枚の絵から授業を構成しようとしたものである。子どもたちからはたくさんの発見が出た。さらにこの時に20ページぐらいの補助資料を自主的に作成。書くことが自分の勉強になっていった。
■ 卒業
4年間を受け持った子どもたちを平成元年3月20日に卒業させることになった。万感の思い出と言いたいところであるが、正直なところ卒業までの指導に精一杯で思いに浸る余裕はなかった。卒業式でも「うまくやってくれ・・・」という思いであった。ただ、子どもたちにできることはないかと前日に考えた。一人一人の思い出を学級通信4枚に綴った。それを真っ白い紙に印刷、そして真っ白い封筒に入れた。卒業式が終わってから、学級でその封筒を配る。食い入るように見つめる子どもたち。この時から、学級通信の「思い出シリーズ」はずっと続けることになる。
■ 教え子たちの披露宴
この子たちの担任時代。教師になりたてということで、今考えれば授業は未熟。学級経営もそれなりであった。もっともこれは今言えることで、当時の自分の中では精一杯。自分なりにがんばったつもりではいたが、やはり経験は重要である。しかし、それでも若さは貴重だ。教え子たちが次々と披露宴に招いてくれる。そしてスピーチ。その
度に当時にタイムスリップしている。教師冥利につきる瞬間である。
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