2016.09.12

【HP移行原稿】佐藤学級4年目

■4年目(昭和63年度・26歳) 江刺市立愛宕小学校6年B組

■ 初めて卒業生を送り出す立場に
 6年生担任は小学校教師にとってやはり格別である。この年、初めて6年生を担任した。しかも今まで3年間受け持った子どもたち。「この1年間、最高の卒業生にしよう」と学級開きの日に決意したものである。同時に校内では6年生は全ての活動のリーダー。担任はその点でいろいろな指導が必要とされた。その分、「やりがいのあるポジションにさせてもらった」と自覚と自戒をしたものだった。
 
■ 子どもたちの活躍ぶり
 子どもたちはあらゆる場面で活躍をした。運動面では、市内水泳記録会でほとんどの子が入賞。1位はとれなかったものの、人数を考えたら十分な出来であった。陸上でも高跳びの優勝をはじめ入賞続々。市内図工展では全員が入賞、そして市内音楽会にも出場(6年生が出ることは非常に珍しかった。当時の校長が「ベストの学年を出すべき」という方針で出ることとなった。)、ミニバスも奮闘というように対外的なものは満足のいくものであった。もちろん、同学年のR先生や他の同僚の先生方の指導によることが大きかったことは言うまでもない。また、児童会活動も活発であった。この年、文化的な活動として全校生活カルタ集会を行う。これは生活標語を4ツ切りのカルタにして、実際にとりあうという集会である。企画段階から子どもたちの自主性を鍛えての取り組みであった。時数減の今ではなかなかできない取り組みであった。

■ 初の雑誌依頼の原稿
 この年、初めて教育雑誌から依頼原稿が来た。あゆみ出版の「子どもと教育」誌である。きっかけは読者感想カードを出したところ、返信が来て「実践をお寄せください」と書かれていたことであった。夏休みに今までのレポート、学級通信をリングファイル1冊にまとめて送ったら、依頼原稿が来たのである。サークル活動もしていない自分。しかし、雑誌に執筆をしたいという希望はあった。あこがれみたいなものである。テーマは「教師の生きがい」で2ページ。4年生の学級通信の失敗談を執筆した。昭和の終わりの暮れに掲載された雑誌が送られてきた時の喜びは格別であった。これ以降、実践を書いて明治図書の編集部や有田先生に送り、次の年からは定期的に依頼原稿が来るようになり、現在に至っている。

■ 市教研・社会の授業
 この年の6月、市教研の社会科部会で研究授業。一昨年も行っているのであるが、有田先生の実践を追試したく立候補。「いざ鎌倉」の一枚の絵から授業を構成しようとしたものである。子どもたちからはたくさんの発見が出た。さらにこの時に20ページぐらいの補助資料を自主的に作成。書くことが自分の勉強になっていった。

■ 卒業
 4年間を受け持った子どもたちを平成元年3月20日に卒業させることになった。万感の思い出と言いたいところであるが、正直なところ卒業までの指導に精一杯で思いに浸る余裕はなかった。卒業式でも「うまくやってくれ・・・」という思いであった。ただ、子どもたちにできることはないかと前日に考えた。一人一人の思い出を学級通信4枚に綴った。それを真っ白い紙に印刷、そして真っ白い封筒に入れた。卒業式が終わってから、学級でその封筒を配る。食い入るように見つめる子どもたち。この時から、学級通信の「思い出シリーズ」はずっと続けることになる。
 
■ 教え子たちの披露宴
 この子たちの担任時代。教師になりたてということで、今考えれば授業は未熟。学級経営もそれなりであった。もっともこれは今言えることで、当時の自分の中では精一杯。自分なりにがんばったつもりではいたが、やはり経験は重要である。しかし、それでも若さは貴重だ。教え子たちが次々と披露宴に招いてくれる。そしてスピーチ。その
度に当時にタイムスリップしている。教師冥利につきる瞬間である。

| | Comments (0)

2016.09.11

【HP移行原稿】佐藤学級3年目

■3年目(昭和62年度・25歳) 江刺市立愛宕小学校5年B組

■ 希望かなってまた持ち上がり
 初任から2年連続で担任をしたのであるが、5年生に担任を希望した。他に希望者がなかったからか3年連続持ち上がり。学級替えで新たな気持ちでスタートである。「5年担任はそのまま6年担任になる」という暗黙の了解がその学校にはあったので「この子どもたちと卒業できる」という嬉しさを感じた。同時に連続からくるマンネリや気のゆるみがないようにしなければと感じた。

■ まとまった実践「岩谷堂タンス」
 前年度からレポートは少しずつ書くようになっていた。この年11月の県教研に支部代表として参加をした。社会科教育分科会である。5年「岩谷堂タンス」の実践である。偶然にも伝統工芸「岩谷堂タンス」の工場が学区にあり、それを教材化したものである。本格的な「教材開発」で、一単元の実践はこれが初めてであった。以後、教研の社会の分科会には4回支部代表として参加することになる。教材開発もここからスタートということで、この「岩谷堂タンス」は自分にとって忘れられない実践となった。

■ パリへ
 この年、新婚旅行でフランスへ。それもパリのみの滞在。パックツアーではなく、自分たちで自由に行動ができるものを選んだ。私も家内も初めての海外であった。
 パリは何もかも美しかった。ベルサイユ宮殿、ルーブル美術館、凱旋門。歴史の重みがずっしり。そして何ともすてきなアンバサダーホテル。
 私自身が楽しみにしていたのはモンマルトルの丘である。名も無き画家たちが明日のピカソを夢見て路上で描くパリの風景。その志。「教師修業」を意識していた自分を画家たちに重ねていた。
 もちろん料理も堪能。機内食はもちろん、ムーラン・ルージュ見学の前にいただいたエスカルゴとワインは最高だった。休日は市街地をブラブラ。何気なく入るお店で英語で会話をするとそれだけで国際人になった気分であった。(フランス語は全くダメなのでもっぱら英語を使ったのである。挨拶は別だけど。)

■ 同僚から学ぶ
 この年に一緒に学年を組んだのは40代のベテランの女の先生。本物の実践家であった。まず、その学級の子どもたちが変わっていった。それも温かい雰囲気の中で。もちろん子どもたちに確かな力をつける。どの教科もだ。私の苦手とする音楽がその先生は専門であった。私の音楽の指導力のなさに同情されたのか、「合同音楽をしましょう」と言ってくださった。ありがたいチャンス!合同音楽と言っても私はほとんど参観しているだけ。その先生の技を盗むのに専念できたのである。この合同音楽は次の年も続いた。実に幸せな合同音楽であった。

■ 衝撃!有田学級
 2月、念願の有田学級の参観ができることとなった。筑波大学附属小学校3年生。教室には参観者が入りきらないということで、歩いて5分ほどの全林野会館のホールを借りて行われた。少しでもいい場所で見たいということで、授業開始2時間近く前に会場に到着。それでも十数名の方がすでに待たれていた。授業開始前には、数百人
の参観者に膨れ上がっていた。
 そのような中で授業をするのだから、子どもたちも緊張するだろうと思ったが、全然お構いなし。有田先生が発問をすると、次々と子供たちの発言が続く。内容もいいが、ユーモアもたくさん。まさに「鍛えられた学級」であった。数年後、有田先生は大学教授になられたので、この時に憧れの有田学級を観ることができたのは本当に僥倖であった。その衝撃は、帰校後に10枚のレポート(しかもタイトルが「全て刺激なり」というものであった)に書いたほど(正確には書かずにはいられなかった)である。

■ 自分なりに工夫した修業
 教師生活も3年目に入り、「この仕事は自分に向いている。一生涯をかける仕事」と思うようになった。一つ一つの実践を励まされたり、目標になるような人がいたりという幸せが自分にはあった。「3年目までで教師人生は決まる」と大学時代の恩師に言われたものであったが、自分の環境もそして時代も本当に有り難かった。法則化運動が盛んになるにつれ、本を読むだけだった自分も修業しなければと感じ、学級通信に細かな授業記録を書いたり、通勤の車で自分の授業を録音したテープを聞いたりした。授業の腕を磨くためである。我流だったためなかなか上達はしなかったが、本による知識は増えていった。
 10月の研究授業。指導主事来校の国語の説明文。指導主事の先生が講評で、「6つのすばらしさ」をわざわざプリント化してご助言くださったことは、実に嬉しいことであった。これが縁かどうかは分からないが、この先生には6年後、アメリカ修業の縁をいただくことになる。

■ 子どもたちと親御さん
 子どもたちも親御さんも3年目の付き合いということで、安定した関係だったと思う。ただ、まだまだ子どもたちを見る目は今考えると若かった。いわばゆとりがなかった。それでも、本当に前向きでよい子どもたちだった。「卒業まで責任を持って受け持とう」という気持ちがより強くなった。

| | Comments (0)

2016.09.09

【HP移行原稿】佐藤学級2年目

■2年目(昭和61年度・24歳) 江刺市立愛宕小学校4年A組

■やる気満々のスタート
 2年目。希望通りの持ち上がり。無我夢中の1年目が終わってやる気満々であった。「頼まれた仕事は何でもするぞ」「チャンスがあったら立候補」という気持ちであった。
 さっそくミニバススポ少の事務局を担当。愛宕小のミニバスはその頃は県のトップクラスのチームであっただけに、責任の大きさを感じながらの仕事をした。前年度は男子が県2位、この年も3位になって共に東北大会まで進むことができた。民間コーチが本当に熱心に指導をしてくれた。
 本業の授業も、続々と研究授業を引き受けた。5月の校内研の図工、6月の市教研の社会、7月の教育課程レポートのための研究授業というように1学期は3ヶ月連続の研究授業であった。それを聞いた同僚の先生が「若いということは凄いわー」と言ったことを覚えている。(今の初任者はこれくらいのことをしているが、当時は珍しかった。) とにかく何でもやってやろうという気持ちであった。

■高熱の中での研究授業
 ところが1回目の研究授業のの朝、起きてみると頭が痛い。熱を測ると38度。休むことは考えられない。気力でやるしかない。どんどん熱が高くなっていき、体調が悪くなるのがわかった張り詰めた気持ちで何とか1時間の授業を終えた。その後、すぐに病院に行く。注射を打ってもらい研究会もがんばって出た。授業の出来、不出来はもう覚えていないが、健康管理の重要性を改めて感じた出来事であった。
 ところで図工の研究授業は珍しい経験であった。この年、図工の絵画領域の学校公開が行われた。子どもたちの技能も高かった。意図的な指導、前提となる基礎的な技能の重要性を学んだ。これは音楽、体育にも共通するものである。今は国語や算数の校内研究が多い。当時はこのように図工や体育、社会の研究校も珍しくなかった。いい時代であった。

■私の教師人生を決定づけた有田先生の講演
 昭和61年8月2日。県の社会科教育大会が宮古市であった。市教研の日であったが、当時から有名だった有田先生が岩手に来られるということで、大会の方に参加をすることにした。
 夏休み中であったが、子どもたちが登校して授業を公開した。午後、いよいよ有田先生のご講演が始まった。このご講演は衝撃的であった。今まで「つまらない講演・講義」に慣れてしまっていた。ところが有田先生のお話はまずおもしろい。笑い話を聞いているようである。それでいて教育実践の中身は深い。「自分も真似たい」と思うものばかりであった。一番なのは「教材開発が生き甲斐で楽しい教師人生」と言われた点である。会社から教員生活に入り、その刺激の少なさや職場(40代以上が大多数)ののんびりムードに、「教師は一生の仕事?」と疑問に思った時期もあったからであった自分。これで一気に有田先生のファンになった。次々に本を購読。実践も真似た。同時に向山洋一氏、野口芳宏氏の本もどんどん読む。雑誌も十数冊購入するようになっていた。手取りの2割は本代に費やした(それも教育書・教育雑誌)が、もったいなくなかった。

■組合でのレポート
 読むだけではなく、自分で何か発信したいと思ったのもこのころである。身近にあったのが、組合の教研であった。支部の生活指導に係活動のレポートを発表。「県教研にぜひ」と言われたがミニバスがあり断念。もっともこれは内容が優れていたからではなく、若手実践者が少なく「勉強になるから」という意味であるが。
 青年部の教研にも熱心に参加した。平和教育のレポートを作成。社会の沖縄の学習でのレポートである。県内の実践者の影響を受けて、「はだしのゲン」を教室に置いたり、朝の会で「今日のニュース」で平和教育に関わる出来事を伝えたものであった。このレポートには後日談がある。半年後の夏休み、岩手日報のコラム欄にレポートの一部が引用されていた。同僚の先生に「何か言われなかった?」と心配された。管理職によっては、「戦争」「平和」という言葉だけで、猛烈な指導を受ける場合があるというのである。むろん、そのようなことは心配無用であったが。

■学級通信と大失敗
 発信はレポートだけではない。学級通信も有田先生の講演会後の2学期から発行しはじめた。
 授業や子どもの様子はもちろん、自分の研修記、本の話等、何でも詰め込んだという形の学級通信であった。一日2枚発行したり、冬休み号(20枚ぐらい)も出したりしたので、最終的には2学期からの発行にもかかわらず178号まで出した。
 今だったら絶対出さないようなものでも平気で出していた。たとえば「頭を悩ます研究紀要」「先生が授業をしない」といったものである。親御さんはよく文句を言わなかったものだと思う。確かに毎日通信を発行する教師は当時の愛宕小ではおらず珍しかったからであろう。面談の時に励ましを頂いたこともあって、自分もやり続けることができたのだと思う。「学級通信」は自分の学級経営の武器の一つとなった。

■ あれこれ
 10月に引っ越し。分けあり引っ越しで新しい住まいは間借り。しかも玄関には大家さんの犬がいて帰るたびに吼えられていた。おかげで飲み会の帰りなどは近所に大迷惑をかけることとなった。隣にはゲートボール場があり、ゆっくり寝ていたい休日に限り「はい!2番ゲート通過!」の声で目が覚めたものであった。
 またこの年、大学時代いろいろあった両親(山梨)とも普通に行き来ができるようになった。映画を観る回数はさらに減る。秋田に帰る回数も同様。ただ、帰省した時には必ず会う親友がいた。彼の実践は大いに刺激になった。
 12月にワープロを購入。会社勤め時代にわずかであるが使っていたので、すぐに慣れた。それでも「ワープロで学級通信」というのは考えられない時代であった。書き手も読み手もである。

■2年目の学級経営
 1年目と違い、2年目は多少なりとも学級経営に自信が持てることができるようになった。子どもたちの成長に手応えがあったし、学力も1年目よりも身につけさせることができたように思えた。(これは次の年に「甘かった」ということを知る。)一年目と違い、親御さんへの対応にも少しずつ余裕が出てきた。「先生のつうしんぼ」にも取り組んでみて、好評だったことに自己満足。もっともこれらは、今考えると「まだまだ」なのであるが。当時としては精一杯であった。

| | Comments (0)

2016.09.08

【HP移行原稿】佐藤学級1年目

■1年目(昭和60年度・23歳) 江刺市立愛宕小学校3年A組

■ 念願の教師に
 大学卒業時に採用試験不合格だった自分。家庭の事情でアルバイト三昧だった大学時代は、十分な採用試験対策もしなかったため、あえなく一次で不合格。講師の口も希望をすればあったとは思うが、「会社に入るのもおもしろそう」ということで、学習塾の会社に入る。教えることがメインの仕事であったが、セールス等の様々な仕事もした。社会人1年目だったため、失敗もしばしば。社長にこっぴどく叱られ、会社で涙が止まらなかったこともある。でも、この1年間は教員では体験できない貴重なことばかりだった。
 そんな中で受けた採用試験。運よく岩手県が採用してくれた。今のように倍率が高くない時代。その点では本当にラッキーだった。県南を希望していたら、江刺市とのこと。採用前に訪れた日、春の青空が広がっていたことを思い出す。

■ 子どもの前に立つ
 初めて出会った子どもたちは3年生(学年2クラス)。会社では中学生相手だったので、ずいぶんかわいいなあと思ったものである。出会った日に、ある子が聞いた。「先生、休み時間、遊んでくれる?」「もちろん、一緒に遊ぼうね。」 この年優勝した阪神タイガースの野球帽をかぶった子は「やった!」と喜んでいた。
 それからは本当に休み時間は子どもたちとよく遊んだ。サッカー、鬼ごっこ、遊具遊び・・・。遊びのために授業時間はきっかり終了。すぐに子どもたちと汗だくになって教室に戻ってきた。授業の腕など未熟に決まっている。その未熟さを遊ぶことでカバーしていたのかもしれない。

■ 子どもが集中していない・・・
 しかし、休み時間の遊びで学級経営がうまくいくほど甘くない。6月に新採用者対象に研究授業をすることになった。(なぜか自分が指名された) 今のように長い初任者研修などない時代だったから、そのような研修があってものんびりしたものだったが、当時の教頭先生が心配して授業を1時間参観してくださった。その中で言われたのは
「子どもが集中していない・・・」ということであった。
 それまで教師の授業行為ばかり意識していて、子どもたちに目を注ぐことをあまり気にしていなかった。それだけで精一杯だったのである。
 そこから6月の研究授業に向けて学級の立て直しが始まった。様々な手立てを講じたことを覚えている。研究授業も何とか乗りきった。この年は合計5回の研究授業を行った。一つ一つが立て直しの場になった。

■ たくましい子どもたち
 今考えたら子どもたちはたくましかった。私が住んでいたのは、隣の学区のアパート。子どもたちの家とは数キロ離れていたのであるが、休日は走って遊びにきたものであった。10人ぐらいの団体で来られた時にはさすがにアパートに入りきらなかった。
 自己主張も子どもたちはよくしていた。日記を毎日書かせていたので、子どもたちの心がその分見えたものであった。

■ 研修の場
 新採用ということで「忙しかった」(今考えると十分な時間があった時代)ためか、あちこちの研修会に行くということはあまりなかった。そんな中、組合に入って生活指導の学習会や青年部教研に行ったことは、刺激的であった。「自分もレポートを書く人にならなくちゃ。読む人でとどまっていちゃだめだ。」と思ったものである。
 組合には10月に加入。学生時代の卒論の一部に石川達三の「人間の壁」と取り上げたことがあり、最初から加入することは決めていた。職場は40代以上がほとんどだったから、青年部での横のつながりは貴重であった。

■ ありがたき親御さん、職場の先生方
 今考えれば授業の腕が未熟なのに、親御さんは有り難かった。温かく見守ってくださったからである。最初の授業参観の時に眠ってしまった子がいても、学級通信を全く出さなくても・・・である。違う学校だったら、次々に要望が来ていたかもしれない。
 それどころか、独身だからということでよく食べ物を頂いた。ある時など、おでんの入った鍋がアパート入り口に置かれていたこともあった。(次の日にある子が「おでん、あったでしょう」)
 職場の先生方も有り難かった。何もわからない新採の活動を見守ってくれたからである。たとえば6年生を送る会の出し物練習でも同学年の先生は一切任せてくれた。指導案も事前検討会で「こうしたら」と意見はいただいたが、「でも、こうやらせてください」と主張を通したこともしばしばだった。そのあげく失敗をするのだが、その方が無難に成功するより学びが大きかったと今となっては思う。

 それにしても教育関係の本はさっぱり読まなかった。教育雑誌を数冊、本を月に2,3冊読む程度であった。大学時代のなじみの本を読むことの方が多かった。前年まで年に百数十本見ていた映画も、映画館が少ない地ということで激減。「ライフワークに」と思っていたが夢の如く消えた。

| | Comments (0)

2016.06.05

アメリカ研修記12

【ホームページ移行のためのリバイバル掲載です】

3 個性的な社会科授業

 私自身の今回の研修の目的の一つに、「アメリカの社会科教育は、どのように行われているか」ということがあった。ここでは、二つの社会科の授業例を紹介する。

(1) 具体的な作業学習を通して地形的な特徴をつかむ

 5年生の社会科。アメリカ合衆国の地形についての学習である。
 通常の授業であれば、印刷した白地図に山脈の名前を書き込んだり、どこに平野が広がっているか考えたりといったような、いわば頭の中での作業が多いであろう。ところが、私が見た授業は具体的な作業を通して地図作りであった。
 作り方は次の通りである。

① 各自、4つ切り画用紙より少し大きめの板やダンボール箱を用意する。教師はそれにアメリカ合衆国の大まかな地図を書く。
② 各自が持ってきた小麦粉を水にとかし粘土のようなものを作る。子供たちは、地図帳を見て山脈・川・平野を意識しながら立体的に小麦粉をつけていく。
③ 小麦粉が固まったら、その白地図にペイントしていく。平野の部分は緑、川は青、山脈は茶色というようにである。隣国のカナダ・メキシコには別の色をぬって、自分だけのアメリカ合衆国の立体地図の完成である。

 このような具体的な作業の過程で、子供たちは「この山脈は〇州と〇州にまたがっている」というようなことを自分で発見する。教師から与えられた知識と違って、そのようにして得た知識は、次の地理的な学習に応用されていくものであろう。

(2) 子供たちの追究意欲を喚起し、単元の学習中その意欲を持続させる

 4~5年のクラスの社会科。世界各国のことについて、一人が一国ずつ調べるという学習である。
 この学習は1ヶ月半にわたる長期的なものである。私が見たのは単元の最後の部分である。子供達が今まで学習したことをもとにして、自分と等身大の紙の人形を作るというものである。その人形は、その国を表す衣装や動作を取り入れる。どの子も自分が調べたノートをもとにして、人形作りに取り組んでいた。
 この単元の大まかな流れは、次の通りである。

① 自分の名前や家にある物、家族の趣味などから、自分の調べる国を決める。
② その国の本を図書館で探し、自分なりに調べる。
③ 学級で話し合いをして、自分たちでまとめる視点を方向づける。
④ 各自、その方向づけに沿って、ミニレポートにまとめる。
⑤ 学習のまとめとして、等身大人形にその国を表現する。

 私が感心したのは、どの子も意欲的に学習活動をしている点である。ノートを見ても、自分が家族から聞き取り調査をしたこと、本で調べたことがぎっしりと書かれていた。
 1ヶ月半に及ぶ学習で、なぜこんなに意欲が持続するのだろうか。次の二つの理由が考えられる。
 一つは、単元の導入に、身近な存在である家族を対象としているからということである。身近なものであれば、興味が増し、聞き取り調査もしやすい。家族も進んで外国に行った時の写真や資料を出してくれたという。
 もう一つは、教師が4枚にわたる単元の学習の手引きを出しているからである。その手引きには、この単元でどんな学習をどのような方法でするかが書かれている。しかも、何月何日まで聞き取り調査をするように期日が明示されている。だから、子供達は見通しを持って、自力で学習することが可能となるのである。もちろん、このような手引きを作るためには、しっかりとした単元構想が教師に必要である。改めて教材研究の重要性を自覚した
次第である。

4  まとめ  ~私が学んだこと~

 最後に、私がアインソワーズ小学校から学び、今後に生かしていきたいことを記す。

(1) 自分の授業をもっと創造的に
 社会科の授業例でもわかるように、アインソワーズ小学校では、一人一人の授業が個性的・創造的であった。先の例の他にも、2年生では月ごとに一つのテーマを決めて総合学習を行っていた。たとえば、10月にはハローウィーンがあるので、それについてアウトドア学習もするし、絵や工作もするし、日誌作りもするという具合である。このような授業は、教師自身の深い教材研究と旺盛なチャレンジ精神があって可能となるのだろう。その姿勢に学びたい。

(2) 子供たちにもっと励ましを
 アメリカの教師と子供との関係はドライだろうと予想をしていた。ところが、実際にはそうではなかった。朝、教室に入ってくる子一人一人に声をかける先生。子供の質問に納得いくまで答える先生。ちょっとした注意を促す場面はたびたびあったが、怒る場面は一度も見ることはなかった。
 逆に、どのクラスも人数が20~24人ということで、教師が一人一人の子を深く見つめ、励ましているように思われた。生徒指導面な面でも学ぶことが大きかったわけである。

(3) 研修を続けることの大切さ
 研修を続け、自己を高めていくことは、教師である限り不可欠なことである。アインソワーズ小学校の教師たちは常に研修を続けていた。長期のバカンスといえども、新学年の教材研究のためにかなりの時間をさいている。
 私の研修中に、州の教育関係者が学校に来て、州の目指す教育の在り方を説明した時があった。その時に、教師たちから質問や意見が続々と出されるのを見て、感心したものである。学びつづけることがいかに大切か痛感させられた。

 この2ヶ月間の研修は、私にとってかけがえのないものとなった。この体験を、今後の教育現場に還元するように努力していきたい。この研修にご尽力いただいた関係諸機関をはじめ、ホストファミリー、アインソワーズ小学校の皆さんに、心から感謝したい。

| | Comments (0)

2016.06.04

アメリカ研修記11

【ホームページ移行のためのリバイバル掲載です】

私の見たアメリカの教育  -アインソワーズ小学校に学ぶー
(1993年の海外視察研修の報告書より)

1 TEACHER

Talented       (才能ある)
Efficient       (技量ある)
Accomplished   (熟達した)
Creative       (創造的な)
Helpful        (有用な)
Effective       (効果的な)
Respected      (尊敬された)

 上の表は、私が研修を行ったアインソワーズ小学校のある先生のTシャツにプリントされていたものである。この言葉通り、アインソワーズの教師たちはすばらしかった。
 授業では技量のあるところを見せ、創造的な教育を示してくれた。そして、教師たちは子供たちに信頼され、尊敬されていた。私が学んだことは数多い。
 このアインソワーズ小学校は、ポートランド市のダウンタウンから車で10分ほどの南西部に位置している。児童数は450名、教職員数は46名で、幼稚園から5年生までの児童が在籍している。児童の家庭は比較的裕福であり、保護者の教育への関心も高い。また、市内で唯一のスペイン語のクラスがあり、それがこの小学校の特色の一つにもなっている。
 ここでは、アインソワーズ小学校の特色、そして、そこから私が学んだことを中心に述べていきたい。

2 アインソワーズ小学校の特色

(1) 教師たちの意欲的な仕事ぶり
 教師たちの仕事ぶりは意欲的である。勤務時間はご前8時から午後4時までであるが、ほとんどの教師たちは7時30分ごろまでには教室に入り、授業の準備をしている。始業が8時45分であるから、1時間以上もその日の準備に費やすわけである。午後も5時ごろまで残る教師が多い。
 自分なりの授業をするために、納得がいくまで教材研究をするーそのように私には思われた。
 それに何も学校のある日ばかりではない。5年生担任のマーチン先生は、土・日も教材研究に費やすという。そのほかにも、夏のバカンスの時には、新しく担当する学年の単元の構想をねり、進んで講習会に参加するという。また、理科の実験道具を豊富に持っているので聞いてみると、半分以上は自費で購入したとのことである。「それが自分の人生を豊かにするからです」と彼女は言った。このような教育に対する積極的な姿勢は、私にとって刺激的であった。

(2) 弾力的な時間割
 アインソワーズ小学校における時間割は、各学級によって大幅に異なる。それぞれの教科の時間の取りかたも、各担任の裁量に任せられている。ただし、体育・音楽・図書館の授業は専科の教師が行うので、時間が固定化している。
 教師自身が学習時間を決めるので、子供たちの学習活動に応じた弾力的な授業運営が可能となる。たとえば、午後に2時間算数と理科の授業がある場合、「今日は理科の実験を長くしたいから、算数は20分、残りは理科をしよう」ということができるわけである。ちなみに、休み時間のとり方も担任に一任されているので、学習活動が途切れるということはない。

(3) スペシャリストの存在
 この小学校には、日本の小学校にはないスペシャリストが存在していた。スクールカウンセラー、E・R・Cの教師、D・A・R・Eの警察官等である。スクールカウンセラーは、カウンセリングを通して子供たちの心の悩みを解決しようとしていた。また、E・R・C(Educational  ResourceCenter)の教師は、読み・書き・算数等の学力が低い子供達に対して個別的な指導を行っていた。
 私が一番興味を持ったのは、D・A・R・E(Drug Abuse Resistence Education)である。これは、アメリカの社会問題になっている麻薬使用を防ぐために、市が小学校段階から教育しようとするものである。市の教育計画に沿ったテキストがあり、警察官が直接授業をする。その授業も、ロールプレーイングを取り入れた実践的なものである。無いようは麻薬だけに限らず、飲酒や誘拐の防止なども含まれている。アメリカの国情を表した教育ということが言える。

(4) 市内で唯一のスペイン語の授業
 先に述べたように、アインソワーズ小学校では、スペイン語の授業が行われている。といっても、各学年2クラスずつである。特別の授業であるため、スペイン語の教師にはヘルパーが一人ずつついている。
 私が驚いたのは、高学年ともなるとスペイン語そのものの授業はわずかで、スペイン語を使って算数・理科・図工などを学習をしている点である。教師はスペイン語を使って授業を進め、子供たちもスペイン語で答える。スペイン語を理解するだけでなく、実際に表現できるところまで高めるという語学教育だと感じた。

(5) 親の積極的援助 -ビジター・ボランティア制度ー
 小学校には日常的に親たちが出入りしていた。参観のためではない。学校教育の援助をするためである。彼らのことをビジター、あるいはボランテイアと称していた。
 たとえば5年生の社会科で小麦粉で立体的なアメリカ合衆国の地図を作る学習。小麦粉と水を混ぜて、ほどよい固さはしなければいけない。親が二人来てその作業の援助をする。子供たちは、製作に専念できるというわけである。また、作業の手伝いだけではなく、時には自分の得意分野で子供たちに授業をすることもある。2年生では、建築物に詳しい親が、模型や写真などを活用して、家の立体的な書き方を説明していた。子供達も、何も抵抗を感じることなく自然に話を聞いている。
 派は親だけではなく、多くの父親もビジターとしてきているので、「彼らは仕事を休んで来るのですか」と聞くと幼稚園の先生は、「そうです。彼らは、学校で何かトラブルがあるより、1時間仕事を休んで学校に来る方がベターだと考えているのです。」と答えた。親たちの教育への関心の高さを示す話である。
 このビジター・ボランテイア制度の利点は次のようなものであろう。

 ■子供たちの学習が効率的に行われる。
 ■親が、我が子の授業での様子を気軽に見ることができる
 ■親は我が子の友達を知り、子ども達も友達の親を知ることができる

 特に3番目のメリットが大きい。幼稚園で、父親がコンピュータの学習の時、どの子たちにもやさしく励ましながら教えているのが印象的だった。

(付記)1993年のときには、「日本の普通の小学校がこんなふうになるのは、いつのことだろう」と思っていたが、それから10年もしないうちに当たり前の風景となったものもある。(ゲストテイーチャー) これからも日本の小学校はどんどん変わっていくことであろう。

| | Comments (0)

2016.05.29

アメリカ研修記10

【ホームページ移行のためのリバイバル掲載です】

2 オレゴン州の教育(1993年の報告)

(1) オレゴン州について

 オレゴン州は、アメリカ合衆国の北西部に位置している。州の面積の半分がダグラスモミ等の森林で覆われており、その他にも海岸あり、平原ありとたいへん自然に恵まれている。年平均気温は12度と気温は温和であり、草木は1年中緑色を保っている。

 州の経済は、林業・農業・観光業といった豊かな自然環境に依存した産業を中心に発展してきた。最近は、海外からの投資が活発となり、ハイテク産業を中心とした製造業が成長し、産業構造の多角化が図られてきた。オレゴン州への投資の魅力としては、豊富で低廉なエネルギーと水、質の高い労働力、環太平洋諸国との貿易の玄関口、州政府をはじめとする行政機関等の積極的な企業誘致製作等が挙げられる。日本との貿易もさかんであり、穀物・木材・パルプ等を輸出し、自動車およびその部品・電気機器等を輸入している。

 オレゴン州の日本への関心はきわめて高く、各種団体による日本関係の行事、フェスティバル等がよく開催されている。また、日本語教育の面では質量とも、国内では有数のレベルである。

(2) オレゴン州の教育の現状

 先に述べたように、アメリカ合衆国の具体的な学校運営は、地区あるいは学校そのものに委ねられている。オレゴン州も例外ではなく、同じ州内の学校でありながらも、一日の時間数、単位数が異なる。つまり、地区の実態に合わせた教育が可能となるわけである。ただ、我々が見た範囲においてはオレゴン州は二つの特徴を持っているように思われた。

 第1は、柔軟性に富む教育を行っているということである。

 中学校は高校では、数多くの選択教科が用意されており、生徒はその中から自分の能力や興味に応じて自由にカリキュラムを組めるシステムの学校が多い。また、同じ教科でも何種類かのレベルの違った授業があるので、能力に応じた教育が実践されている。小学校においても、専科の時間を除いては、教科の授業時間は教師の裁量によって決めることができる。だから、教える内容によって弾力的な運用が可能となるわけである。

 この柔軟性は、公立初等・中等教育だけにとどまらない。一般社会人でも、コミュニティカレッジに通って単位を取得している人も数多くいる。特に、ポーランド・コミュニティカレッジのシルベニア校の学生の平均年齢は32才という。学びたいときに学べるシステムであり、生涯教育が浸透していることの証左であろう。このほかにも、日本にはないシステムとして、ホームスクーリングの制度がある。これは、親が自分の子に学校教育と同じ内容の教育を施すものである。州全体の1%がこの制度を利用しているという。このような権利を認めているのも大きな特色である。

 第2の特徴としてあげられるのは、社会的弱者に対して教育を受ける権利を保障しているということである。

 たとえば障害児教育。障害を持った子どもは、就学年令に達すれば、障害の程度に関わらず、その学区の小学校に入学することができる。そして学校は、その子どもが学習できる環境整備を図る義務がある。地区で持っているスクールバスの中には、車いすのまま乗降できる装置を備えているものもある。社会全体が人権の保障に理解を示しているこの国ならではのシステムである。

 また、ここ数年増加しつつある海外からの移民者に対する教育制度も整えられている。その子たちは英語が話せないので、ESL(English as Second Language)と言われる英語を特別に教える教育が実践されている。様々な国から移民してきた子たちなので、ESLの教師の他に他国語のアシスタントがつく場合もあるという。

 そのほかにも、クリスティースクールという情緒障害児を扱う学級もあった。この学校は、アルコールや麻薬などのために家庭が崩壊したり、家族から性的、肉体的、精神的虐待を受けて情緒障害になった子たちが寮生活をしながら学んでいた。アメリカ社会特有の背景がそこにはあるが、そのような子たちにも援助の手をさしのべているわけである。

(3) 地区ごとに特色のある教育

 先に述べたように、アメリカ合衆国では、同じ州内の同じ地区の学校でも、その様子は異なっていることが多い。
 ただ共通して言えることは、自分の地区の実態に合わせた教育を行っているということである。
たとえば、ポートランド市リッチモンド小学校の日本語教育を我々は参観した。世界でも難しい言語とされている日本語をなぜ教えるのかという問いに対する答えは、「最初は他の小学校でスペイン語教育を始めた。そうしたら、『次は日本語教育を』と親が希望するようになったからだ」というものだった。このようなところにも、地区の特色を生かしていく姿勢が伺える。

3 21世紀の教育に向けて

 州では、2010年までという長期的展望にたった教育改革を、1991年からスタートさせた。その改革の内容には、現在180日前後の授業日数を段階的に増やし、最終的には220日にすること、自己学習力・思考力・表現力を高めること、コンピュータ教育をさらに充実させること等が盛り込まれていた。州教育でも、その改革を遂行するために、各学校で訪問しているが、実際の現場では、古い型の教育と新しい型のものが混在しているとのことであった。

 ただ、この教育改革にも大きな問題が一つある。州の教育予算が、十分ではないということである。財源確保のために消費税導入の投票がホームスティー終了後にあったが、75%の反対で導入は見送られた。その改革も予算の規模が縮小されたら、小さな形でやらざるを得ないという話であった。

 しかしながら、限られた予算の中で、各地区の特色を生かしながら教育改革を進めようとしているオレゴン州の教育から学ぶ点は多かった。日本も新指導要領の全面実施にあたり、新しい教育を模索中である。
 今後の我々の教育実践の参考にしたい。

| | Comments (0)

2016.05.28

アメリカ研修記9

【ホームページ移行のためのリバイバル掲載です】

オレゴン州の教育事情(1993年のもの)

1 アメリカ合衆国の教育

  アメリカ合衆国の教育制度は州ごとによって異なる。我々が訪れたオレゴン州の教育制度が、そのまま他の州にあてはまるわけではない。そこで、オレゴン州の教育事情を述べる前に、アメリカ合衆国全体の教育について記す。

 アメリカ合衆国では、教育は州の責任事項とされ、各州がそれぞれ独自の教育制度をとっている。また、州は、教育に関する権限のうち、かなりの部分を地方に委託している。具体的に、初等・中等学校をどのように編成するかといった場合、多くは、地方教育行政機関(学区、school districts)が決定してきた。だから、地域により、様々な形の初等学校、中等学校が作られているわけである。
 義務教育に関する規定も州によって異なっており、オレゴン州は6~18歳までが義務教育であった。

 公立初等・中等学校の教育課程の作成は、州および地方の責任事項であり、連邦政府の教育省は関与しない。教育省の教育に対する権限はさほど大きくなく、主な役割としては、各州の教育事情の調査・研究そして教育についての提言などに限られている。
 州は、州の教育法などにより、公立学校で教えるべき教科等について大まかな規定を設けている。地方学区は、その規定に基づいて、学区内の公立学校で教える標準的な教育課程を作成する。各学校は、それらの指針に基づいて、教育課程を編成をするわけである。

 教育財政制度に目を向けると、公立初等・中等学校の教育費のほぼ全額が公費で負担されている。公費は、連邦、州および地方学区の三者で構成されている。以前は、地方学区が教育費の主たる負担者であったが、最近は州の負担率が学区のそれを上回るようになった。また、連邦政府の支出が減少傾向にあるため、州の負担額は増加し続けている。
 さらに、地方の教育財政は、住民の財産税に大きく依存している。そのため、児童・生徒一人あたりの教育費は州によって大きな格差がある。
 そのために、安定した財源の確保および格差是正のための財政制度の確立が急がれている。

 このようにアメリカ合衆国の教育制度は、地方分権的な特徴を備えており、その特質は、国土が広大で国民の構成や文化が複合的な状況に適合するものとして受け入れられてきた。そのため、他の先進諸国と比べると、極めて多様性と柔軟性に富むという特徴を持っている。このことは、我々24人のレポートを見てもわかることであろう。
 また、常に変革を指向していることも大きな特徴である。特に近年は、国民の意識の高まり、移民の増加、社会の価値観の多様化、国際競争力との関連等の要因が教育改革の方向にも反映されている。

| | Comments (0)

2016.05.23

アメリカ研修記8

【旧HP移行のためのリバイバル掲載です】

★ 質素

 「豪邸」に住んでいるアンであるが、その生活ぶりはきわめて質素である。
 まず食べ物は絶対に残さない。
 彼女は私の母親と同じくらいの年齢である。私の母も食べ物は絶対に残さなかった。食べ盛りの時に戦中・戦後でちょうど食糧難だったことが影響しているのであろう。

 それに対してアンはおそらく食糧難を経験してはいないだろう。
 それでも食べ物に厳しい。いつだったか、チキンの丸焼きを食べたことがあった。そうしたら、骨が見えるところまで肉を一つも残さず食べるのである。それから、スープなどが残っていてもまず捨てることはない。いくら少量でも、冷蔵庫に入れて、また飲むのである。
 外食はまずしない。
 私がホームスティー中は一度も行かなかった。必ず自分で作った。時には、2日分の食事を作っておいて、2日連続で食べることもあった。ただ、苦手な食事の時は私にとって、地獄の責め苦のようなものだったが・・・。
 お菓子にしても同様で、ワッフルやクレープなど自分で作って食べていた。

 食べ物だけではない。
 とにかく一緒に買い物に行った時には、安くていい物をさがしていた。ドッグフードにしても、ベッドのマットレスにしても、自分のセーターにしてもである。
 彼女と一緒にして、「ムダだなあ」と思ったことは一度もなかった。
 電気にしても必要な分しかつけない。
 天気のよい日にはバスを使わずに学校に歩いていく。
 お金のかかる趣味を持っているわけではない。ちなみに、趣味はウオ―キング、テニス、スイミングである。テニスとスイミングは週に1回ずつクラブに行っているが、かかる費用は合わせて5000円ほどである。

 ただ、彼女はケチというわけでもない。
 立派な服はたくさん持っているし、ソファーやテーブルなどの家具類は、かたくて丈夫で、しかも見た目もいい。
 つまり、ずっと長く使うものにはお金を惜しみなく注いで、安くあげれるものは安く済ますという精神のようである。これは実に合理的である。
 彼女の暮らしぶりを見て、我が暮らしぶりを考える。実にムダが多い。貯金もなかなかできないわけである。
 ライフスタイルを少し考えなければ・・・・。

★ あいさつ

 日本とアメリカの文化の違いを特に感じるのはあいさつの時である。
 アメリカでは、まず初対面の時に握手をすることが多い。「ナイス・ミート・ユー」と言って。「はじめまして」というのは、「ハウ・ドゥ・ユ・ドゥ」と中学校以来思っていたが、あまり使わないようである。
 その握手の時に、必ず相手の目を見ていること。目を見ていないと、逆に失礼にあたるそうである。
 というわけで、アメリカにいる間、たくさんの人と握手をすることになった。

 それから知らない者どうしでも街角ですれ違う時には、「ハイ!」と声を掛け合う。
 すべてのアメリカ人がそうするというわけではなく、歩いていて目と目が合った時に、自然に「ハイ!」という言葉が出てくる人が多いようである。
 はじめは、一方的に声をかけられる方だったが、ホームステイーをして2週間もするとこちらから自然に声が出るようになった。

 こう考えると、アメリカ人のあいさつは我々日本人よりは接触度が高い。
 ただ、私にはアメリカ式の「だきつく」「ほっぺたにキスをする」というあいさつは見ていてとてもなじめなかった。幸いなことに、私はそのどちらもされることはなかったが、アンが同僚の男の先生を家に招いてさよならをする時に、その先生のほっぺたにキスをする時には、思わず目をそむけてしまった。
 恥ずかしかったからではない。生理的に受け付けなかったのである。
 日本式のあいさつが一番と考えた。
 やはり私は日本人なのである。

★ ホームパーティー

 ホームステイ―中に、アンの息子のスティーブンのバースディーパーティーがあった。
 スティーブンは誕生日を迎えると23才。オレゴン大学で英文学の勉強をしている。背がとても高く(190cm)、いつもニコニコしている好青年である。
 オレゴン大学は、アンの住んでいるポートランド市から160km離れたユージーン市にあり、姉のベッツィと一緒に住んで、大学に通っている。

 さて、バーティーの日。この日は、すでに結婚してサンフランシスコに住んでいる長女のジェニファーもかけつけてきた。聞くと、全部で12人集まるという。
 ほとんどが初対面の人で、しかも英語、英語の嵐なので少し気が重かったが、アメリカ人の若者たちのパーティーを見るのも悪くないだろうと気を取り直して参加した。

 パーティーの開始時刻は7時。その10分前からポツポツと人が集まり始めている。でも、アンは全然料理を作り始めない。テーブルの上には、グラスと皿をきれいに並べたのにである。
 集まった人は、皆リビングに行って話をしている。
 各自ビールやら、ジンやら、ワインなどをそれぞれ飲んでいる。食べるものはクラッカーだけ。私のほかにも、初対面の人どうしがいるみたいで、ホッとする。日本のことについて、いろいろと聞かれるので、答えているうちに1時間半がすぎてしまった。

 みんなが席についたのは8時半。それから料理とワインが出てくる。といっても、豪華な料理というわけではない。2種類のパスタとサラダだけである。なるほど、これならば7時になっても準備する必要はないわけである。
 すぐにみんな食べ終わるのかと思ったら、なかなか食べ終わらない。量が多いからではない。みな、会話を楽しんでいるのだ。本当によくしゃべる。

 だいたい食べ終わったところで、ケーキに23本のローソクが立てられる。そして、型通りの「ハッピーバースディー」の歌と共にスティーブンがローソクを吹き消す。
 あとは、そのケーキを食べるのだが、これまたなかなか食べ終わらない。なぜか。そう、例によって会話を楽しんでいるからである。

 気がつくと、みなカードをスティーブンに渡している。私は、ミニだるまをプレゼントした。「あなたが幸せになった時に、片方の目を入れてください」というメッセージを添えて。

 結局、パーティーが終わったのは11時半。4時間半もあの料理とケーキだけで楽しんだわけである。
 つまり、こちらのパーティーは、料理よりも会話や雰囲気を楽しむのが第一なのだ。我々がバースディーパーティーを聞いて連想するのは、豪華な食事とプレゼントであろう。ところが、彼らにはそのどちらもない。
 実に質素であり、そして気軽である。

 いつだったかアンにスクールカウンセラーのホームパーティーがあるから、そこで夕食をとろうと言われて、行ったことがあった。
 集まった人は約20人。各自が一品ずつ料理を持ってくる。ある人はピザを用意し、ある人はサラダ。また、別の人はコーヒーやケーキを用意するといった具合。あとは、各自が好みに合わせて選び、会話を楽しむわけである。
 なるほど、これなら手軽である。

 会合というと、すぐにどこかのお店の予約を連想するけど、時にはこのような会を開くのもいいものだ。もっとも、そのためには、かなり広いリビングが必要だけど・・・。

★ 散歩

 このホームステイ中に覚えた楽しみの一つに散歩があった。
 ポートランドでは、10月でも晴れの日が多く、雨が降った日は5~6日ぐらいしかなかった。曇りの日も少なく、雨が降らない日はだいたいが晴れだった。
 特に土日は5回あったが、すべて晴れだった。この休日に、散歩するのが何よりの楽しみになった。

 何が楽しいのか。周囲の風景を見るだけで楽しいのである。
 まず、一つ一つの家が美しい。そして、実に個性的である。形もそうであるが、壁の色もそうである。
 しかも家を飾りつける小物にもこっている。これは、私自身が自宅を新築したばかりであったから、興味があった。

 そして、それらの家を引き立たせてくれるのがポートランドにはあった。
 庭と木々である。どの家も必ずといっていいほど、庭を持っていた。鮮やかな緑色の芝生である。
 庭があるのとないのでは、家の雰囲気も変わってくる。庭があると、そこには当然木々と花々が植えられることになる。それがまた、家と調和されるのである。

 こんな美しいところを、しかも快晴の中できれいな空気を吸うことができる。・・・こちらの人々が散歩好きになるのも当然だ・・・そう思った。
 事実休みの日になると、ウォ―カーがどっと増える。しかも見知らぬどうしでも、目と目が合うと、「ハイ!」とあいさつする。心と心が通い合うわけである。
 サンキュー、グッドウォーキング!

| | Comments (0)

2016.05.22

アメリカ研修記7

【旧HP移行のためのリバイバル掲載です】

★ 日本料理?でもてなす

 ホームスティをして12日目。先週末に泊まりに行ったフランクが来るという。ホストマザーのアンに、「先週楽しませてくれたお礼に、今日は私が夕食を作りましょう。」と申し出た。
 アンは例のオーバーな表情で、「本当!それはすばらしい!」と言い、さらに「楽しみだわ!」と付け加えた。ただ、料理をするだけなのだが、大いなるリップスティクと感じた。

 問題は何を作るかである。日本料理のための材料は、ほとんどスーパーに売っている。豆腐だって、味噌だって、ちゃんとポートランドのスーパーに売っている。
 アメリカ人は、日本料理と言えばすぐに「スシ」を連想する。フランクもかなり食べたことがあるらしく、「テッカマキ。マグロ」などと口にする。
 そこで寿司はやめて、イージークッキングをすることにした。「釜飯・野菜炒め・シューマイ」である。この組み合わせ、どこが日本食だと思われるかもしれないが、「日本ではポピュラーな食事」ということで、勝手に「日本食」にさせてもらうことにした。

 さて、どれも調理は簡単。釜飯は「かまめしの素」を入れてご飯を炊くだけだし、野菜炒めも調味料と醤油で味付けするだけ。シューマイにいたっては、電子レンジで3分間待つだけである。
 それでも、二人とも大いに気に入ってくれた。特にアンおばさんは、野菜炒めを「グッドテイスト!」とほめまくってくれた。(その割にはなかなか量が減らなかったが)

 私も一つ一つ説明をした。
「これらは深いポットで作るご飯で、日本では有名なのです。」
「これらは野菜を炒めたもので日本では人気があるのです。」
 フランクも喜んでくれて自分の名前を日本語で書いてくれという。日本だったら私の字の下手さ加減がばれるが、幸いここには日本語がわかる人は誰もいない。そこで、大きく「フランク」とカタカナで書いたら、「ビューティフル」と言ってくれた。

 いずれ日本料理のおもてなしは大成功。自分も久々のご飯に喜んでたくさん食べることができた。これからも、日本食を紹介するという名目でどんどん料理しようという気になった。
 ちなみに第二弾はカレーライス。これまたイージークッキングであった。

★ 忘れ得ぬ人 ジェフ

 アメリカ合衆国の有名大学ですぐに思い浮かぶのがハーバード大学である。
 私がホームスティーをしている時、身近なところにハーバード大学卒の人がいた。ジェフである。
 彼はアンの妹ベッツイのボーイフレンドで、私がホームステイをしてから1週間ほどして、アンの家に遊びに来た。背はアメリカ人にしては低いものの、立派なヒゲを生やしている。29才のコンピュータプログラマーである。

 その彼が、「マサ、今度の金曜日、ダウンタウンに連れていってあげよう」と言う。(まあ、ハーバード大学卒業の人と話すのも最初で最後だろうから・・・)と思い、興味津々で「OK」と返事をした。

 さて、その金曜日、彼はボロボロの車で来た。
 まあ、車はそうでも、もしかしたら食事は高級レストランだろうと予想していた。ところが、車は薄暗い街角でストップ。あたりは、高い工場が並ぶようなところである。
 とても高級レストランがあるようには見えない。

 やがて、ある工場の入り口に。人々の歓声が聞こえてくる。
 中に入ると、そこは倉庫を改造したビヤホールだった。床はコンクリートのまま。
 そして、テーブルが所狭しと並べられている。メニューはビールとピザのみ。でも、空いている席がないほどのにぎわいである。中には立ちながらビールを飲んでいる人もいるほどである。

 何とか席についてから話し始める。
 彼とは話しやすかった。彼の英語が聞き取りやすいからである。あまりにも流暢に英語を話されると聞き取りにくい。単語と単語がくっついて発言されるからである。
 ところが、彼は大事な単語の前で一呼吸おく。だからわかりやすい。

 エクアドル旅行の話、今の仕事が忙しいという話、二つの大学に通った話、アメリカの教育問題のこと、そして恋人のベッツイのこと。
 あっという間に1時間がすぎ、彼が「行こう」と言った。「今度は別の酒場だろう」と思ったら、何と本屋に行くとのこと。

 ポートランド一の本屋ということだったが、確かに大きい。東京の八重洲ブックセンターの比ではない。県立図書館ぐらいの規模である。
 本も高いところまであるので、人々は脚立で本をとって、そこで立ち読みをしている人もいるぐらいである。各国の本のコーナーは数十ヶ国あり、日本のコーナーにも数百冊。

 ジェフ。ハーバード大学卒業といえども庶民的。しかも、知的な香りのする人であった。

★ 写真

 映画やテレビでこんあシーンを見たことはないだろうか。
「アメリカで働くエリートビジネスマン。エレベーターを颯爽と降りると、彼はオフィスに向かう。ドアをあける。彼の目に真っ先に飛び込んでくるのは家族の写 真・・・」

 日本人だったら照れがあって仕事場で家族の写真を掲げている人は少ない。
 ところがアインソワ―ズ小学校ではそのような人が珍しくない。
 ポーリン先生。ちなみにこの先生がアインソワ―ズ小学校では、一番若いように見えた。
 その彼女の教室の机の上には、ハズバンドの写真。
 それだけではない。教室の壁面にも、スキー姿のツーショット写真。堂々としたものである。
 彼女だけではない。他の先生方でもやはり家族の写真をかざっている人が何人もいた。

 そもそもスティー先のアンの家もそうだった。
 すべての部屋が写真だらけである。
 たとえば、私がよく使った部屋(6畳ぐらい)には、本棚の中に5枚もの大きな写真が飾られている。そして、机の上にも様々な6枚の写真。それが珍しくないのである。
 一番多く貼られている場所は冷蔵庫。とっての部分を除いてはほとんど写真で埋め尽されている。おかげで、サンフランシスコにいる娘のジェニファーに会わないうちに、すっかり顔を見たような気になってしまった。
 
 その国民性を反映してか、店には写真立てを売っているところが実に多い。私もその気になって、写真立てを買った。
 しかし、帰国後に教室ではそれが使われることがなかった。やはり、国民性の違いなのだろうか。

★ これが普通の家?

 ホームステイーの初日、アンの家についたのは夜の9時半ごろ。
 どんな家だろうと思って入っていく。外側から見ると、ニ階建ての普通の家だろうなと思って入った。
 ところが中に入ってみると思いのほか広い。
 次から次へと部屋が出てくる感じなのである。
 そして、「ここがあなたの部屋だよ。」と言われて、「ワンダフル!」と言ってしまった。というのは、部屋の窓から遥か遠くにダウンタウンの夜景が見えるからである。
 う~ん。毎日夜景を見ながら眠りにつくことができるというのは何というぜいたく!
 
 アンの家は次のような部屋からできていた。
■ リビングルーム・・・20畳ぐらい
■ テレビルーム・・・6畳
■ プライベートルーム・・・6畳が4部屋、8畳が1部屋、12畳が1部屋
■ ディナールーム・・・6畳
■ キッチン・・・12畳(食事もできる)
■ バスルーム(トイレ・シャワー・洗面所がセット)・・・3つ
■ 地下室・・・1部屋とランドリー
■ サンデッキ
■ 車が二台入るガレージ

 日本でもこれぐらいの家となるとなかなかないであろう。もし、あったら人はそれを「豪邸」と言うであろう。
 ちなみに海外研修の年に建てた我が家は、アンの半分の広さしかない。いや、3分の1だろうか。
 これが、このあたりで立派な家かというと、そうでもない。
 ごくごく普通の家らしい。
 試しに近所を散歩してみたら、アンの家よりはるかに大きい家が次から次へと出てくる。むしろ、アンの家が普通より小さく見えるほどである。

 アメリカの教師たちの収入は、私たちとそんなに変わらない。しかし、アンはこんな大きな家に住んでいる。
 さて、そうならば値段が気になるところである。聞けば、現在でも我が家が建てた価格の6割でこのような家を建てることができるとのこと。
 日本の物価は高いとポートランドに来て思っていたが、この時ほど高いと思ったことはなかった。

| | Comments (0)