2017.08.21

まさに地域の文化活動だった(H21)

平成21年に書いた原稿です。

----

 「教育振興運動」は岩手独自のものである。学校、家庭、住民等が総ぐるみで、地域の教育課題の解決に自主的に取り組む運動である。本地区でも昭和40年代から読書活動を地域で行ってきた。

 その伝統は受け継がれ、今も各地区の子ども会で親による読み聞かせが行われている。ただ以前ほどの取り組みはしていない。時代の変化もあるだろう。

 そこで、12月の教育振興会地区懇談会で、「かつての地域での読書活動について語っていただこう」という趣旨でゲストを迎えてフリートークを行った。
 ゲストは60代の女性が3人。30代の時に地域の読書活動の中心的存在だった方々である。驚いたのは、30年前の地域の読書会の実践である。
 定期的に公民館に子どもたちを集め、読み聞かせをした後に話し合いをする。当時の読書文集にもそのやりとりが具体的に掲載されている。教師がやっていたのではなく、それを地域の父母が熱心に取り組んでいたのだ。それだけではない。親子読書に大人同士の読書会まで実践されていた。
  読書活動にかける一人一人の熱い思いが、その読書文集にほとばしっていた。
「様々な読書会で、本当にたくさんのことを学んだ」
「読書は私の一生の財産になった」
とゲストは話していた。

 「子どものために」と始まった活動が、いつの間にか自分たちの学びになっている。
 まさに地域の文化活動の理想例がここにあったのである。
 今もその伝統が脈々と続いているのは、その実践した皆さんがきちんと地域に素地を作ってくださったおかげだとわかった。同時に教頭として、この伝統を継承していくことの大切さを自覚した。

| | Comments (0)

2017.08.20

打ち合わせの連絡事項を学級の指導に生かすには?

Q:朝の打ち合わせでは指導・連絡事項が多く、それを子どもたちに伝えたり、指導したりするだけで時間がかかります。
  また、朝から注意が多くなると学級の雰囲気も暗くなります。
  どのようにしたらいいでしょうか。

A:確かに、「今日の昼休みに広報委員会は児童会室に集合させてください」「落とし物に記名がありません。書かせてください」といった連絡事項や指導事項が打ち合わせでは多いですね。
 「伝えるだけで精一杯」という日もあるでしょう。
 ここで大事なのは、それらを「担任の立場」で考えることです。
 
 まず、連絡事項は確実にメモして伝えましょう。
 そのために、「該当者」「時間」「連絡内容」はしっかりと記録します。
 特に子どもたちの集合や使用禁止等の連絡は、子どもたちが「聞いていません」ということにならないようにします。
 付箋紙に書いて口頭で伝え、さらにその付箋紙を学級内の連絡ボード(出入り口に設置すると効果的)に貼っておくと、子どもたちが確認する時に便利です。

 指導が必要な事項については、軽重を考えます。
 緊急ではなく簡単な話で済みそうなものは、給食の時間等にまとめて話すのも1つの方法です。
 「これは重要」と思ったものは、指導のしかたを工夫します。
 「体育館の使用割当を守らず一年生にボールがぶつかって泣いた→一年生になって教師が演技。
 気持ちを考えさせる」というように、打ち合わせの時に閃いたら即メモをします。
 単に注意だけではなく具体的な指導をすることが大切です。
 ただし、時間がかかりますから朝の会等では一つに絞ります。
 
 なお、私は打ち合わせでメモをした用紙は持ち歩くようにしています。
 確認ができるし、思いついたことを追加で書き込みこともできます。
 また解決事項は線で消します。
 リストが消されていくことで達成感を味わうことができます。

| | Comments (0)

2017.08.14

学校を愛する皆さんに感謝(H20)

平成20年当時の勤務校についての原稿です。

---
 勤務校の地域の皆さんは学校に対して大変協力的であり、感謝することもしばしばである。先月もそのことを強く感じた出来事があった。

 地域の老人クラブ、子どもたちの祖父母が子どもたちと一緒に草取りをする「勤労奉仕作業」という行事が、本校にはある。地域のお年寄りの皆さんが「おらが町の学校のために」と、花壇等の学校周辺の草取り作業を行う。暑い日に二時間あまりの作業。決して楽ではない。
「皆さん大丈夫かな・・・。無理されなければいいが・・・」と思っていた。
 ところが実際に作業が始まると全くの杞憂だった。

・作業の一時間も前に学校に来て、「私は時間があるから」と言って、早めに草取りを始めたおばあさん。
・子どもたちと会話をしながら、「毎日陸上練習をがんばっているなんてすごいね」とに励ましの言葉をかけていたおばあさん。
・にこにこしながら、遠くの場所に何度も一輪車で草を捨てに行くおじいさん。
・退院して体調も十分ではないのに、「作業はできなくても、励ますことはできる」と学校に来てくださった老人クラブの会長さん。
 
 本当にお一人お一人が「学校のためなら」と一生懸命に草取りをしてくださった。しかも、草取りの手際も抜群である。担当の先生が、「『草取りオリンピック』の金メダルです!」と話したほどである。

 終了後は、校舎内のホールで子どもたちがお菓子とお茶を振る舞う。さらに、担任の先生のアイデアで、急遽リコーダー演奏と歌を行った。お年寄りの皆さんも熱心に聴いてくださった。特に「ふるさと」の演奏の時には「兎追いし・・・」と思わず口ずさむ方もいた。
 その姿を見て、「皆さん、本当に学校と子どもたちを愛しているんだなあ。本当にいい地域だ。」とつくづく思った。このような地域の中で育つ子どもたちは幸せである。

| | Comments (0)

2017.08.13

「朝の会」の運営のこつは?

Q:「朝の会」がいつも決まり切った内容でワンパターンになりがちです。
どのようにしたらいいでしょうか。

A:基本的に朝の会には次の3つの機能があります。

①管理的機能・・・出欠・健康観察・提出物確認・事務連絡等
②指導的機能・・・挨拶・歌・1分間スピーチ・話し合い等
③自主活動的機能・・・係の連絡及び活動・ミニイベント・自主提案等

 ベースになるのは管理的機能です。
 子どもたちの健康観察は重要ですし、連絡事項をおろそかにはできません。
 その上で指導的機能と自主活動的機能を、学級の実態と教師の願いをもとに充実させることが大事です。
 私はそれぞれの機能にキーワードをもって取り組みました。

 管理的機能のキーワードは「一工夫かつ効率的に」です。
 たとえば、出欠確認や健康観察で、単に名前を呼ぶだけではなく、「いい返事!」というように全員に一言かけるだけでも子どもとの距離が縮まります。
 毎日は無理でも週に1回行うだけでも違うものです。
 また、家庭学習やハンカチ調べの点検活動は実態に合った目標を決め、期間限定にしてて行うと、マンネリになりません。

 指導的機能のキーワードは「一点集中で伸ばす」ということです。
 たとえば、「読書好きになってほしい」というのであれば、「本の紹介」をプログラムに入れ数人が紹介します。
 話す力を伸ばした時には、「1分間スピーチ」を交代でさせます。
 他にも群読・歌・ことわざ紹介等が考えられます。
 ポイントは、教師が事前のサポートをすることです。任せっきりでは効果も薄くなります。

 自主的活動機能では「係活動の活性化」がキーワードです。
 2~3分でできるゲーム係やクイズ係によるミニイベントや、実際に各係が話し合う時間にしてもいいです。
 新しい提案が出てくるものです。

| | Comments (0)

2017.08.07

小中併設のよさ・地域のよさを感じた運動会(H20)

 ファイルを整理していたら,管理職になって書き始めた原稿が見つかった。エッセーではあるが,記録にしておきたいと考え,定期的に紹介していく。平成20年の原稿から。

----
 今年度から教頭職を拝命し、異動となった。緑豊かな地にある小中併設の全校四十四名の小規模校である。その併設校のよさを、五月十七日の運動会でさっそく感じることができた。

 本校では、メインの応援合戦を「スペシャル」と称して、本格的な劇と歌等のパフォーマンスを入れて全員で行う。紅組、白組の二組対抗で、一つの団は二十二人。一学年2~3人だ。中学生一人一人はまさに貴重である。リーダーとして内容を企画し、小学生の全員に合った場面を考え、指導する。小道具作りにも時間を割く。むろん、小学生も真剣だ。練習も半端ではない。 
 だから、本番での七分の「スペシャル」はとても見ごたえがあった。そして、このスペシャルを創る過程に思いを馳せた。多くの苦労をしたであろう。

 運動会終了後の子どもたちだけのミーティングでは、中学校三年生のメッセージに思わず泣き出す小学生の子たちもいた。胴上げされるリーダーの誇らしげな表情。見ていた私も子どもたちの熱き思いに感動した。
小学生だけではこのような運動会はできない。中学生のすばらしいリードがあり、目指すべき理想像があったからこそできた運動会だと感じた。小中併設の学校にしかできないことだ。

 また、地域が強力な学校のサポーターであるということも改めて実感した。早朝からの巨大パネルの取り付けやテント設営のためにお父さん方が集まる。皆顔なじみでチームワークがよく、どんどん仕事を進めていく。祖父母や地域の皆さんも張り切って運動会を見に来て、大きな拍手をしたり、大笑いをしたり・・・・にぎやかな観客がいれば運動会も盛り上がる。

 十年前も、二十年前も、三十年前もきっと同じような風景だったのであろう。地域のよさがそのまま受け継がれていると感心した。

| | Comments (0)

2017.08.06

「朝の教室」で心掛けることは?

 過去のファイルを整理していて,これは公開して残しておきたいな…というものが見つかった。40代半ばで書いたもの。まだ単著もそれほど発刊していない頃だ。今は別の考えもあるが,当時としては自分なりに全力で書いたもの。定期的に毎週日曜日に連載していきたいと思う。

---

Q:出勤後にすぐに教室に向かうのですが、子どもたちとの雑談や注意で終わってしまいます。
  もっと有意義な「朝の教室」にしたいと思っています。どのようにしたらいいでしょうか。

A:教室にすぐに向かうことは担任がその日の最初にすべき仕事です。
  その点で大切なことを毎日していますね。

 まずは明るく挨拶で教室に入りましょう。
 「先生の挨拶で元気になる」と言われれば本物です。
 子どもたちとの雑談はコミュニケーションを深めることになりますから大いにしましょう。
 ただし、「個別に声をかける子」を意図的に決めておいて、「宿題、ばっちりだね。美里さん」というようによさを認める場にもしたいものです。時間に余裕のある朝の教室だからできることです。

 また、個別の対応を重視しましょう。
 朝、みんな元気に登校するとは限りません。どうしても積極的に近寄ってくる子に目が行きがちですが、一人淋しそうにしている子にこそ目を注ぎます。
 そのためには教室にいる子全員を見ることが大切です。
 特にも、子どもが何らかのサインを出している時には配慮します。
 たとえば、熱もないのに「先生、保健室に行ってもいいですか?」と訴えてきた時は、「元気がないね。困っていることはない?」と1対1で話を聞きます。
 「そう。じゃあ、保健室へ」といった事務的な対応は避けたいものです。

 朝の教室環境の様子を見るのも大切です。
 机上やロッカーが乱雑な時には、どのように指導したらいいのか考えます。
 大事なのは「叱るネタ」として見るのではなく、その背景にあるものを推測することです。
 注意が必要な場合には一工夫します。
 たとえば、朝の会で「朝、ロッカーが泣いていました。どうしてだと思う?」と問いかけるのもいいです。

 始業前の「朝の教室」には、このように指導に役立つ視点が多くあるのです。

| | Comments (0)

2016.09.12

【HP移行原稿】佐藤学級4年目

■4年目(昭和63年度・26歳) 江刺市立愛宕小学校6年B組

■ 初めて卒業生を送り出す立場に
 6年生担任は小学校教師にとってやはり格別である。この年、初めて6年生を担任した。しかも今まで3年間受け持った子どもたち。「この1年間、最高の卒業生にしよう」と学級開きの日に決意したものである。同時に校内では6年生は全ての活動のリーダー。担任はその点でいろいろな指導が必要とされた。その分、「やりがいのあるポジションにさせてもらった」と自覚と自戒をしたものだった。
 
■ 子どもたちの活躍ぶり
 子どもたちはあらゆる場面で活躍をした。運動面では、市内水泳記録会でほとんどの子が入賞。1位はとれなかったものの、人数を考えたら十分な出来であった。陸上でも高跳びの優勝をはじめ入賞続々。市内図工展では全員が入賞、そして市内音楽会にも出場(6年生が出ることは非常に珍しかった。当時の校長が「ベストの学年を出すべき」という方針で出ることとなった。)、ミニバスも奮闘というように対外的なものは満足のいくものであった。もちろん、同学年のR先生や他の同僚の先生方の指導によることが大きかったことは言うまでもない。また、児童会活動も活発であった。この年、文化的な活動として全校生活カルタ集会を行う。これは生活標語を4ツ切りのカルタにして、実際にとりあうという集会である。企画段階から子どもたちの自主性を鍛えての取り組みであった。時数減の今ではなかなかできない取り組みであった。

■ 初の雑誌依頼の原稿
 この年、初めて教育雑誌から依頼原稿が来た。あゆみ出版の「子どもと教育」誌である。きっかけは読者感想カードを出したところ、返信が来て「実践をお寄せください」と書かれていたことであった。夏休みに今までのレポート、学級通信をリングファイル1冊にまとめて送ったら、依頼原稿が来たのである。サークル活動もしていない自分。しかし、雑誌に執筆をしたいという希望はあった。あこがれみたいなものである。テーマは「教師の生きがい」で2ページ。4年生の学級通信の失敗談を執筆した。昭和の終わりの暮れに掲載された雑誌が送られてきた時の喜びは格別であった。これ以降、実践を書いて明治図書の編集部や有田先生に送り、次の年からは定期的に依頼原稿が来るようになり、現在に至っている。

■ 市教研・社会の授業
 この年の6月、市教研の社会科部会で研究授業。一昨年も行っているのであるが、有田先生の実践を追試したく立候補。「いざ鎌倉」の一枚の絵から授業を構成しようとしたものである。子どもたちからはたくさんの発見が出た。さらにこの時に20ページぐらいの補助資料を自主的に作成。書くことが自分の勉強になっていった。

■ 卒業
 4年間を受け持った子どもたちを平成元年3月20日に卒業させることになった。万感の思い出と言いたいところであるが、正直なところ卒業までの指導に精一杯で思いに浸る余裕はなかった。卒業式でも「うまくやってくれ・・・」という思いであった。ただ、子どもたちにできることはないかと前日に考えた。一人一人の思い出を学級通信4枚に綴った。それを真っ白い紙に印刷、そして真っ白い封筒に入れた。卒業式が終わってから、学級でその封筒を配る。食い入るように見つめる子どもたち。この時から、学級通信の「思い出シリーズ」はずっと続けることになる。
 
■ 教え子たちの披露宴
 この子たちの担任時代。教師になりたてということで、今考えれば授業は未熟。学級経営もそれなりであった。もっともこれは今言えることで、当時の自分の中では精一杯。自分なりにがんばったつもりではいたが、やはり経験は重要である。しかし、それでも若さは貴重だ。教え子たちが次々と披露宴に招いてくれる。そしてスピーチ。その
度に当時にタイムスリップしている。教師冥利につきる瞬間である。

| | Comments (0)

2016.09.11

【HP移行原稿】佐藤学級3年目

■3年目(昭和62年度・25歳) 江刺市立愛宕小学校5年B組

■ 希望かなってまた持ち上がり
 初任から2年連続で担任をしたのであるが、5年生に担任を希望した。他に希望者がなかったからか3年連続持ち上がり。学級替えで新たな気持ちでスタートである。「5年担任はそのまま6年担任になる」という暗黙の了解がその学校にはあったので「この子どもたちと卒業できる」という嬉しさを感じた。同時に連続からくるマンネリや気のゆるみがないようにしなければと感じた。

■ まとまった実践「岩谷堂タンス」
 前年度からレポートは少しずつ書くようになっていた。この年11月の県教研に支部代表として参加をした。社会科教育分科会である。5年「岩谷堂タンス」の実践である。偶然にも伝統工芸「岩谷堂タンス」の工場が学区にあり、それを教材化したものである。本格的な「教材開発」で、一単元の実践はこれが初めてであった。以後、教研の社会の分科会には4回支部代表として参加することになる。教材開発もここからスタートということで、この「岩谷堂タンス」は自分にとって忘れられない実践となった。

■ パリへ
 この年、新婚旅行でフランスへ。それもパリのみの滞在。パックツアーではなく、自分たちで自由に行動ができるものを選んだ。私も家内も初めての海外であった。
 パリは何もかも美しかった。ベルサイユ宮殿、ルーブル美術館、凱旋門。歴史の重みがずっしり。そして何ともすてきなアンバサダーホテル。
 私自身が楽しみにしていたのはモンマルトルの丘である。名も無き画家たちが明日のピカソを夢見て路上で描くパリの風景。その志。「教師修業」を意識していた自分を画家たちに重ねていた。
 もちろん料理も堪能。機内食はもちろん、ムーラン・ルージュ見学の前にいただいたエスカルゴとワインは最高だった。休日は市街地をブラブラ。何気なく入るお店で英語で会話をするとそれだけで国際人になった気分であった。(フランス語は全くダメなのでもっぱら英語を使ったのである。挨拶は別だけど。)

■ 同僚から学ぶ
 この年に一緒に学年を組んだのは40代のベテランの女の先生。本物の実践家であった。まず、その学級の子どもたちが変わっていった。それも温かい雰囲気の中で。もちろん子どもたちに確かな力をつける。どの教科もだ。私の苦手とする音楽がその先生は専門であった。私の音楽の指導力のなさに同情されたのか、「合同音楽をしましょう」と言ってくださった。ありがたいチャンス!合同音楽と言っても私はほとんど参観しているだけ。その先生の技を盗むのに専念できたのである。この合同音楽は次の年も続いた。実に幸せな合同音楽であった。

■ 衝撃!有田学級
 2月、念願の有田学級の参観ができることとなった。筑波大学附属小学校3年生。教室には参観者が入りきらないということで、歩いて5分ほどの全林野会館のホールを借りて行われた。少しでもいい場所で見たいということで、授業開始2時間近く前に会場に到着。それでも十数名の方がすでに待たれていた。授業開始前には、数百人
の参観者に膨れ上がっていた。
 そのような中で授業をするのだから、子どもたちも緊張するだろうと思ったが、全然お構いなし。有田先生が発問をすると、次々と子供たちの発言が続く。内容もいいが、ユーモアもたくさん。まさに「鍛えられた学級」であった。数年後、有田先生は大学教授になられたので、この時に憧れの有田学級を観ることができたのは本当に僥倖であった。その衝撃は、帰校後に10枚のレポート(しかもタイトルが「全て刺激なり」というものであった)に書いたほど(正確には書かずにはいられなかった)である。

■ 自分なりに工夫した修業
 教師生活も3年目に入り、「この仕事は自分に向いている。一生涯をかける仕事」と思うようになった。一つ一つの実践を励まされたり、目標になるような人がいたりという幸せが自分にはあった。「3年目までで教師人生は決まる」と大学時代の恩師に言われたものであったが、自分の環境もそして時代も本当に有り難かった。法則化運動が盛んになるにつれ、本を読むだけだった自分も修業しなければと感じ、学級通信に細かな授業記録を書いたり、通勤の車で自分の授業を録音したテープを聞いたりした。授業の腕を磨くためである。我流だったためなかなか上達はしなかったが、本による知識は増えていった。
 10月の研究授業。指導主事来校の国語の説明文。指導主事の先生が講評で、「6つのすばらしさ」をわざわざプリント化してご助言くださったことは、実に嬉しいことであった。これが縁かどうかは分からないが、この先生には6年後、アメリカ修業の縁をいただくことになる。

■ 子どもたちと親御さん
 子どもたちも親御さんも3年目の付き合いということで、安定した関係だったと思う。ただ、まだまだ子どもたちを見る目は今考えると若かった。いわばゆとりがなかった。それでも、本当に前向きでよい子どもたちだった。「卒業まで責任を持って受け持とう」という気持ちがより強くなった。

| | Comments (0)

2016.09.09

【HP移行原稿】佐藤学級2年目

■2年目(昭和61年度・24歳) 江刺市立愛宕小学校4年A組

■やる気満々のスタート
 2年目。希望通りの持ち上がり。無我夢中の1年目が終わってやる気満々であった。「頼まれた仕事は何でもするぞ」「チャンスがあったら立候補」という気持ちであった。
 さっそくミニバススポ少の事務局を担当。愛宕小のミニバスはその頃は県のトップクラスのチームであっただけに、責任の大きさを感じながらの仕事をした。前年度は男子が県2位、この年も3位になって共に東北大会まで進むことができた。民間コーチが本当に熱心に指導をしてくれた。
 本業の授業も、続々と研究授業を引き受けた。5月の校内研の図工、6月の市教研の社会、7月の教育課程レポートのための研究授業というように1学期は3ヶ月連続の研究授業であった。それを聞いた同僚の先生が「若いということは凄いわー」と言ったことを覚えている。(今の初任者はこれくらいのことをしているが、当時は珍しかった。) とにかく何でもやってやろうという気持ちであった。

■高熱の中での研究授業
 ところが1回目の研究授業のの朝、起きてみると頭が痛い。熱を測ると38度。休むことは考えられない。気力でやるしかない。どんどん熱が高くなっていき、体調が悪くなるのがわかった張り詰めた気持ちで何とか1時間の授業を終えた。その後、すぐに病院に行く。注射を打ってもらい研究会もがんばって出た。授業の出来、不出来はもう覚えていないが、健康管理の重要性を改めて感じた出来事であった。
 ところで図工の研究授業は珍しい経験であった。この年、図工の絵画領域の学校公開が行われた。子どもたちの技能も高かった。意図的な指導、前提となる基礎的な技能の重要性を学んだ。これは音楽、体育にも共通するものである。今は国語や算数の校内研究が多い。当時はこのように図工や体育、社会の研究校も珍しくなかった。いい時代であった。

■私の教師人生を決定づけた有田先生の講演
 昭和61年8月2日。県の社会科教育大会が宮古市であった。市教研の日であったが、当時から有名だった有田先生が岩手に来られるということで、大会の方に参加をすることにした。
 夏休み中であったが、子どもたちが登校して授業を公開した。午後、いよいよ有田先生のご講演が始まった。このご講演は衝撃的であった。今まで「つまらない講演・講義」に慣れてしまっていた。ところが有田先生のお話はまずおもしろい。笑い話を聞いているようである。それでいて教育実践の中身は深い。「自分も真似たい」と思うものばかりであった。一番なのは「教材開発が生き甲斐で楽しい教師人生」と言われた点である。会社から教員生活に入り、その刺激の少なさや職場(40代以上が大多数)ののんびりムードに、「教師は一生の仕事?」と疑問に思った時期もあったからであった自分。これで一気に有田先生のファンになった。次々に本を購読。実践も真似た。同時に向山洋一氏、野口芳宏氏の本もどんどん読む。雑誌も十数冊購入するようになっていた。手取りの2割は本代に費やした(それも教育書・教育雑誌)が、もったいなくなかった。

■組合でのレポート
 読むだけではなく、自分で何か発信したいと思ったのもこのころである。身近にあったのが、組合の教研であった。支部の生活指導に係活動のレポートを発表。「県教研にぜひ」と言われたがミニバスがあり断念。もっともこれは内容が優れていたからではなく、若手実践者が少なく「勉強になるから」という意味であるが。
 青年部の教研にも熱心に参加した。平和教育のレポートを作成。社会の沖縄の学習でのレポートである。県内の実践者の影響を受けて、「はだしのゲン」を教室に置いたり、朝の会で「今日のニュース」で平和教育に関わる出来事を伝えたものであった。このレポートには後日談がある。半年後の夏休み、岩手日報のコラム欄にレポートの一部が引用されていた。同僚の先生に「何か言われなかった?」と心配された。管理職によっては、「戦争」「平和」という言葉だけで、猛烈な指導を受ける場合があるというのである。むろん、そのようなことは心配無用であったが。

■学級通信と大失敗
 発信はレポートだけではない。学級通信も有田先生の講演会後の2学期から発行しはじめた。
 授業や子どもの様子はもちろん、自分の研修記、本の話等、何でも詰め込んだという形の学級通信であった。一日2枚発行したり、冬休み号(20枚ぐらい)も出したりしたので、最終的には2学期からの発行にもかかわらず178号まで出した。
 今だったら絶対出さないようなものでも平気で出していた。たとえば「頭を悩ます研究紀要」「先生が授業をしない」といったものである。親御さんはよく文句を言わなかったものだと思う。確かに毎日通信を発行する教師は当時の愛宕小ではおらず珍しかったからであろう。面談の時に励ましを頂いたこともあって、自分もやり続けることができたのだと思う。「学級通信」は自分の学級経営の武器の一つとなった。

■ あれこれ
 10月に引っ越し。分けあり引っ越しで新しい住まいは間借り。しかも玄関には大家さんの犬がいて帰るたびに吼えられていた。おかげで飲み会の帰りなどは近所に大迷惑をかけることとなった。隣にはゲートボール場があり、ゆっくり寝ていたい休日に限り「はい!2番ゲート通過!」の声で目が覚めたものであった。
 またこの年、大学時代いろいろあった両親(山梨)とも普通に行き来ができるようになった。映画を観る回数はさらに減る。秋田に帰る回数も同様。ただ、帰省した時には必ず会う親友がいた。彼の実践は大いに刺激になった。
 12月にワープロを購入。会社勤め時代にわずかであるが使っていたので、すぐに慣れた。それでも「ワープロで学級通信」というのは考えられない時代であった。書き手も読み手もである。

■2年目の学級経営
 1年目と違い、2年目は多少なりとも学級経営に自信が持てることができるようになった。子どもたちの成長に手応えがあったし、学力も1年目よりも身につけさせることができたように思えた。(これは次の年に「甘かった」ということを知る。)一年目と違い、親御さんへの対応にも少しずつ余裕が出てきた。「先生のつうしんぼ」にも取り組んでみて、好評だったことに自己満足。もっともこれらは、今考えると「まだまだ」なのであるが。当時としては精一杯であった。

| | Comments (0)

2016.09.08

【HP移行原稿】佐藤学級1年目

■1年目(昭和60年度・23歳) 江刺市立愛宕小学校3年A組

■ 念願の教師に
 大学卒業時に採用試験不合格だった自分。家庭の事情でアルバイト三昧だった大学時代は、十分な採用試験対策もしなかったため、あえなく一次で不合格。講師の口も希望をすればあったとは思うが、「会社に入るのもおもしろそう」ということで、学習塾の会社に入る。教えることがメインの仕事であったが、セールス等の様々な仕事もした。社会人1年目だったため、失敗もしばしば。社長にこっぴどく叱られ、会社で涙が止まらなかったこともある。でも、この1年間は教員では体験できない貴重なことばかりだった。
 そんな中で受けた採用試験。運よく岩手県が採用してくれた。今のように倍率が高くない時代。その点では本当にラッキーだった。県南を希望していたら、江刺市とのこと。採用前に訪れた日、春の青空が広がっていたことを思い出す。

■ 子どもの前に立つ
 初めて出会った子どもたちは3年生(学年2クラス)。会社では中学生相手だったので、ずいぶんかわいいなあと思ったものである。出会った日に、ある子が聞いた。「先生、休み時間、遊んでくれる?」「もちろん、一緒に遊ぼうね。」 この年優勝した阪神タイガースの野球帽をかぶった子は「やった!」と喜んでいた。
 それからは本当に休み時間は子どもたちとよく遊んだ。サッカー、鬼ごっこ、遊具遊び・・・。遊びのために授業時間はきっかり終了。すぐに子どもたちと汗だくになって教室に戻ってきた。授業の腕など未熟に決まっている。その未熟さを遊ぶことでカバーしていたのかもしれない。

■ 子どもが集中していない・・・
 しかし、休み時間の遊びで学級経営がうまくいくほど甘くない。6月に新採用者対象に研究授業をすることになった。(なぜか自分が指名された) 今のように長い初任者研修などない時代だったから、そのような研修があってものんびりしたものだったが、当時の教頭先生が心配して授業を1時間参観してくださった。その中で言われたのは
「子どもが集中していない・・・」ということであった。
 それまで教師の授業行為ばかり意識していて、子どもたちに目を注ぐことをあまり気にしていなかった。それだけで精一杯だったのである。
 そこから6月の研究授業に向けて学級の立て直しが始まった。様々な手立てを講じたことを覚えている。研究授業も何とか乗りきった。この年は合計5回の研究授業を行った。一つ一つが立て直しの場になった。

■ たくましい子どもたち
 今考えたら子どもたちはたくましかった。私が住んでいたのは、隣の学区のアパート。子どもたちの家とは数キロ離れていたのであるが、休日は走って遊びにきたものであった。10人ぐらいの団体で来られた時にはさすがにアパートに入りきらなかった。
 自己主張も子どもたちはよくしていた。日記を毎日書かせていたので、子どもたちの心がその分見えたものであった。

■ 研修の場
 新採用ということで「忙しかった」(今考えると十分な時間があった時代)ためか、あちこちの研修会に行くということはあまりなかった。そんな中、組合に入って生活指導の学習会や青年部教研に行ったことは、刺激的であった。「自分もレポートを書く人にならなくちゃ。読む人でとどまっていちゃだめだ。」と思ったものである。
 組合には10月に加入。学生時代の卒論の一部に石川達三の「人間の壁」と取り上げたことがあり、最初から加入することは決めていた。職場は40代以上がほとんどだったから、青年部での横のつながりは貴重であった。

■ ありがたき親御さん、職場の先生方
 今考えれば授業の腕が未熟なのに、親御さんは有り難かった。温かく見守ってくださったからである。最初の授業参観の時に眠ってしまった子がいても、学級通信を全く出さなくても・・・である。違う学校だったら、次々に要望が来ていたかもしれない。
 それどころか、独身だからということでよく食べ物を頂いた。ある時など、おでんの入った鍋がアパート入り口に置かれていたこともあった。(次の日にある子が「おでん、あったでしょう」)
 職場の先生方も有り難かった。何もわからない新採の活動を見守ってくれたからである。たとえば6年生を送る会の出し物練習でも同学年の先生は一切任せてくれた。指導案も事前検討会で「こうしたら」と意見はいただいたが、「でも、こうやらせてください」と主張を通したこともしばしばだった。そのあげく失敗をするのだが、その方が無難に成功するより学びが大きかったと今となっては思う。

 それにしても教育関係の本はさっぱり読まなかった。教育雑誌を数冊、本を月に2,3冊読む程度であった。大学時代のなじみの本を読むことの方が多かった。前年まで年に百数十本見ていた映画も、映画館が少ない地ということで激減。「ライフワークに」と思っていたが夢の如く消えた。

| | Comments (0)

より以前の記事一覧